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2015-04-08(Wed)

『歌麿の謎 美人画と春画』

歌麿の謎

2005年刊。

歌麿の春画・美人画を分析考証評論した内容でございますが比較的軽い内容で、
初心者でも容易に読める本でございます。

私は浮世絵師の中では北斎に心酔しており歌麿にはそれほど興味がありませんでしたので、
その作品や生涯をよく知りません。

しかしこの本を読んでなぜ歌麿が浮世絵春画を代表する絵師になったのか少し分かった気がいたしました。

北斎はじめ他の絵師たちにとって春画はあくまで作品ジャンルの一つに過ぎない感がございますが、
歌麿は己の本道として全てを春画に懸けていたように思えたのでございます。

寛政二年(1790)「寛政の出版取締令」から始まり何度も春画など表現物の取り締まりがあるのですが、
歌麿はその都度このお上の取り締まりに歯向かったようでございます。

しかしついに50日間の手鎖の刑となりその2年後に没します。

「歌麿はレジスタンス(抵抗運動)として美人画を描き続けた」との一文があり、
私にはその気持がよく分かるのでございます。

エロ(春画)には自ずと革命性があります。

それはタブーゆえに持ち得るエロの宿命ともいえましょう。

200年前エロに命を懸けた歌麿を拝して私も及ばずながら後に続く所存でございます。

2014-12-14(Sun)

ろくでなし子 『デコまん』

ろくでなし子 『デコまん』

ろくでなし子氏自身、今回逮捕されたことでかえって自分の活動や主張が広まり、
本や作品も売れてある意味警察に感謝しているのではないかと思いますが、
それがわかっていながら今度ばかりは応援の意味も込めてこの本を買わせて頂きました。

アマゾンで買おうとしましたら「この本は現在お取り扱いしておりません」と出ており驚きました。
発禁状態なのでございましょう。
ところがKindle版では買えます、しかも¥314という破格でございます。


なし子氏がなぜまんこアートを創るようになったか詳しく漫画化されております。

幼少期の劣等感、自分の性器に対するコンプレックスから小陰唇整形へ。

そしてそれを見てもらいたいという動機で始めた「まん拓」が紆余曲折してデコまんへと昇華…。

なし子氏と事件について興味を持たれた方はぜひ一読をお勧めいたします。

女性自らが女性器と性を一種ファンシーなノリで開放して行くさまは私にとって眼から鱗でございました。

私は現行の規制が性器を隠すのは青少年と女性に配慮しているのだろうとばかり思っておりましたが、
女性自らが女性器(と「まんこ」という言葉)を解放しようとしている。

性器を隠すことを馬鹿げている下らないことだと直感的に感じてきましたがこれで自信が持てました、
これからもバンバン描いていく所存でございます。


氏のデコまん作品も幾つか載っておりまして、
その写真を見るとこれまた私が認識不足だったことがわかりました。

私は氏の作品はまんこの型取りに単にデコレーションを施しているだけだと思い込んでおりましたが、
まんこと性をモチーフにした造形作品も数多くあります。

先のコラムで書いた「一連のまんこを型取ったオブジェはまんこが無ければ何の変哲もない物」という一節は撤回いたします。


同じ性に関する表現でも氏と私ではやり方が全然違っておりますが、
「規制」に対する理不尽さや怒り、思いはまったく同じだろうと感じます。

人間が真摯な気持ちで、抑え切れぬ想いで創る表現物に、
理不尽な理由で圧力を掛けたり、
隠したり、
消したり、
つまりは「抹殺」するようなことは決して許されることではない。

表現物、作品はその作者そのものでございます。

その作品を否定するということはその作者自身を否定するということ、
その作品を抹殺するということはその作者自身を殺すというに等しい行為、
と私は思うのでございます。


付記:現在《芸術家・ろくでなし子氏の即時釈放を要求します》として署名活動が行われております。

2014-11-26(Wed)

葛飾北斎 『萬福和合神』


葛飾北斎 萬福和合神 (浮世絵春画リ・クリエイト版)葛飾北斎 萬福和合神 (浮世絵春画リ・クリエイト版)
(2014/09/24)
葛飾北斎

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葛飾北斎、六十一歳にして最後の艶本でございます。


おさねとおつび、性遍歴する二人の女性の十三歳より三十歳までを描くストーリー。

正直に言いまして初め絵を見たときには落胆いたしました。

北斎らしからぬ下手糞な絵に見えたのでございます。

しかしながら読み進めていくうちにどんどん引き込まれていきまして絵の雑さは気にならなくなりました。

北斎はストーリーの方を重視したのではないか、と思うほどでございます。


二人とも快楽にいささかの迷いなく貪欲に性遍歴を重ねていきますが、

一方は裕福になり一方はどん底まで落ちていきます。

最後はこの幼なじみの二人が偶然ある宿で出会いお互いの人生を語り合いますが、

言い争いになりそうなところへ和合神が現れて…。


私個人としましては、北斎も私と同じような感覚で春画を描いたのだろうと感得できました。

「おつびは尻をもじもじと鼻息荒く目を細め、男の舌をちぎれるほど吸いながら、

婬水がビョコビョコビョコとはじき出して「サアナさあヨさあヨ」と仰向きになりつつ、

とんけつ(注・相手の男の名)がまらを握るに、不思議や此まら世に言う釣鐘まらという物にて…略」

上、中、下巻合計二十四枚の春画の殆どにこのような艶文と台詞がびっしりと書き込まれております。

私は絵を第一に考えておりますが、やはりついつい文章を付けてしまいます。

春画に文章が付くのはもちろん知っておりましたがこの『萬福和合神』の怒涛のいやらしい文章を読んで、

エロ絵師の業とでも言うようなものを初めて理解できた気がするのでございます。


二人はときに心ない男たちに強姦されたりいたします。

今現在、この描写を創作で発表したら発禁になるかも知れませぬ。

読めば分かりますがこの本はそんなことで否定されるべき作品ではございません。

時代を超えてこのような素晴らしい艶本を読めることは幸福なことでございます。


2013-12-18(Wed)

【四畳半襖の下張り】


四畳半襖の下張り四畳半襖の下張り
(2012/12/19)
金風山人、伝永井荷風 他

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有名な裁判にもなっている本なのでタイトルだけは知っていたのですが、
発禁本で読むことは出来ないのだろう、と思い込んでいた作品でございます。
電子書籍で購入しましたのでよく分かりませんが、
文庫にしたらおそらく50ページもない短いものです。
永井荷風の作ではないかと言われている古い作品なので、
現代のわれわれが読んでもそんなにエロくないのではないかと思ったのですがなかなかどうして、
古典的な描写でございますがかなりエロい内容でございました。

金風山人という人物が一件の中古家を購入してその手入れをしている際、四畳半の部屋の襖の下張りに使われている紙に何か書かれているのを見つけます。
物語はほとんどその内容に終始しますがその大半は下張りの作者の、むかし遊女だった妻との初めての交合の描写でございます。
ですから言ってみればこの作品にはセックス描写しかない、いえ、それが目的で書かれているのは間違いございません。
わいせつか否かの裁判にもなった作品でございますから、
きっと多くの人がエロ以外の要素を引っ張り出しておられると思いますが、
私に言わせればこの作品は現代のAVそのまんまでございます。
しかしだからこその凄さも感じるのでございます。
作者不詳なのでこの作品が書かれたのがいつなのか恐らく不明なのでしょうが、
同名の永井荷風の作品(エロではない正式な作品)がありそれは大正6年(1917)の作品。
また、荷風自身はこの春本版の件で1948年に警視庁の事情聴取を受けたそうでございます(ウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%95%B3%E5%8D%8A%E8%A5%96%E3%81%AE%E4%B8%8B%E5%BC%B5)。
少なくとも戦後すぐに書かれた作品。
地下作品とはいえ当時の情勢を考えると作者の「自由」に対する挑戦、覚悟のようなものを感じるのでございます。
私はこの作品を読みながら「エロを書いて何が悪い」という作者の声を聞く思いでございました。
うまく説明できませんが、この「いったい何が悪いのだ」という気持ちが表現における究極の理由だと思うのでございます。

この作品のエロ描写を読みながら思いましたが、
私の絵の描写を文字に置き換えたらこうなるような気がいたしました。
助兵衛心のありようが似ているのかも知れませぬ(笑)。

**********
〈上のほうにしたる片手やり場なきと見せかけて、女の尻をいだきみるに堅ぶとりで円くしまった肉付き無類なり。〉
〈女は胴のあたり少しくびれたように細くしなやかにて、下腹ふくれ、尻は大きからず小さからず、円くしまって内股あついほど暖かに、その肌ざわり絹のごとく滑らかなれば、道具の出来すこしくらい下口なりとて術磨けばずいぶんと男を迷わし得べし。〉
**********
(**********間は作中より引用。以下同)

この女体を撫でるような描写は作者の気持ちがよく分かるところでございます。
次に、見事なセックス描写を引用させて頂きます。

**********
〈大腰にすかすかと四五度攻むれば、女首を斜めに動かし、やがて両足左右に踏ん張り、思うさま股を開いて一物をわれから子宮の奥へ当てさせる様子。〉
〈女よがり死するも知れずと思うにぞ、息を殺し固唾を呑みつつ心を他に転じて、今はの際にもう一倍いやが上にもよがらせ、おのれも静かに往生せんと両手にて肩の上より女の身ぐっと一息にすくい上げ、膝の上なる居茶臼にして下からぐいぐいと突き上げながら片手の指は例の急所攻め、尻をかかえる片手の指女が肛門に当て、尻へと廻るぬめりをもって動かすたびたび徐々とくじってやれば、女は息引き取るような声して泣きじゃくり、いきます、いきます、いきますから、アレどうぞ、どうぞと哀訴するは、前後三箇所の攻め道具、その一つだけでも勘弁してくれという心か。〉
〈髪はばらばらになって身をもだゆるよがり方、こなたも度を失い、仰向けの茶臼になれば、女は上よりのしかかって、続けざまにあれあれまたいく、またいくと二度つづきの淫水どっとあびせかけられ、これだけよがらせてやれば思い残りなしと静かに気をやりたり。〉
**********

ここにはエロしかございません。
断じて他の、芸術的、文学的要素は微塵もないと私は言いたい。
そして、いったいそれの何が悪いのでしょうか。



最後に、作品の初めの方に出てくる一文を。
これは名文でございましょう。

**********
〈持って生まれし好きごころ、いくつになっても止むものでなし。〉
**********

2013-04-22(Mon)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ⑨

「序文」の最後にサドがわれわれ読者に語りかけます。


「読者の皆さん、この世が始まって以来の最も淫らな物語の始まりに備えて、心と頭の整理をしておいて頂きたいのです。
このような物語は古代にも近代にも凡そ類を見ないものでしょう。」


ずいぶんな自信でございます。
しかしこれはまっとうな自己評価と言えましょう。
ただ私はよくわからなかったのでございます。
フランス革命前夜、
何年も刑務所に入れられている人間が、
誰が読むでもない出版の当てがあるでもない小説をこれほどの自信を持って、
まだ見ぬ読者に向かって語れるのか、と。
実際、12mの長さに貼り合わされた巻紙に蟻のような小さい文字で書き綴られたこの『ソドムの百二十日』が日の目を見るのは、
書かれてから100年後なのでございます。


「読者がその実体もよくご存知なしに絶えず口になさっている、
あの造化の神と呼ばれる馬鹿げた存在が私達に強く勧めている尊敬すべき美徳は、
はっきりとこの物語から締め出されているのです。」

「読者にとって何の差異もないように見える情欲でも、よく研究すれば、例え細微でも必ず差異があり、
それぞれ独特な洗練された趣きを持っているものです。」

「読者がこれからこの物語の中でご覧になる多くの逸脱行為の中にはたぶん気に入らないものもたくさんあることでしょうが、
しかし又思わず精水を洩らさずにはいられないほど興奮させる行為もたくさんあるのです。
作者はそれでなければなりません。」


どうやら彼は、まだ見ぬ読者の「精水を洩らさずにはいられないほど興奮させる」ことを使命としているようで、
「作者はそれでなければなりません」と断言するこのサドの言葉を読んで私は非常な親近感を持ったのでございます。
これは、より「抜ける」エロい春画を目指している現在の私の姿ではありませんか。
エロ絵師はそれでなければなりません。

サドの状況なども想像すると、彼がこの物語を書かずにいられなかった心理も興味深うございます。
読み進めば果してその一端でもわかるでしょうか。

いよいよ「序文」が10月31日で終り、11月1日がやってきます。
「第一部」、饗宴の始まりでございます。
2013-04-20(Sat)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ⑧

公爵の“訓示”は徹底的な女性蔑視から反抗的な無神論で締めくくられます。
科学的論理的な無神論などでは到底なく、
公爵の場合は神に対する憎悪が感じられるのでございます。
道徳的なもの、神聖なものには本能的に嫌悪感が沸くようなのです。


「前にも言った通り、宗教的な行為と思われるような行為はどんな行為でも一切禁止するぞ。
予め警告しておくが、宗教的な行為はあらゆる罪の中で最も厳しく処罰されるのだぞ。
何人かの馬鹿な女は神という恥ずべき観念を捨てる決心もつかず、
思い切って宗教を嫌う気持ちにもなれずにいるが、私はよく知っているよ。
私はきっぱりと言っておくが、そういう女は厳重に吟味するぞ。
もし運悪く現場を押さえられたら、死罪よりも恐ろしいどんなにひどい仕打ちが待っているか知れないぞ。
そうした馬鹿な女は早いところ料簡した方がよいな。
神の存在などという阿呆らしい観念にしがみついているのは、今日この世に二十ばかりの宗教に属している連中しかいないではないか。
彼らが頼りにしている宗教というものは偽善者達が発明したお伽話に過ぎないし、
我々を騙そうとしている意図があまりにも見え見えではないか。
自分でよく判断してみるとよい。
もし神が存在するとしたら、もし神が全能であるとしたら、神は、
神の栄光であり、お前達が誇りにしている美徳が犠牲に供されようとしているのを何故放置しておくのだろうか。
全能といわれる神は、俺のような一個の弱い被造者、神から見れば象の目の中にいるダニのような憐れな存在が、一日中、
神を侮辱し、挑戦し、無視し、反抗するのを黙って見ているのだろうか。
どうだ、お前達、そんなことがあるはずはないではないか。」


私はエロスをテーマにこの感想文を書いているわけでございますが、
公爵の女性蔑視や神に対する憎悪、
これらもエロスに深く根ざしていると感じるのでございます。
春画を発表し他人様に視て頂くようになってから私は真剣にエロスを考え始めました。
そうするとどうしても人間感情や心理、人間存在の本質に行き当たるのでございます。
私は現在ではエロスに、美と宗教と生と死を感じるようになっております。
この『ソドムの百二十日』は私に新しいエロスの一面を見せてくれるのではないだろうか―
この本は私にとって爆薬のような破壊力に満ちているのではないだろうか―
そんな予感がするのでございます。
2013-04-18(Thu)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ⑦

「序文」の最後は、館内の女たちに対するブランジ公爵の“訓示”で終わっております。
開口一番、

「お前達は我々の快楽を満たすために鎖で繋がれている弱い存在なのだ」

という強烈な女性蔑視の言葉が発せられます。
この訓示では女性蔑視と、徹底的な無神論が述べられております。


「女のお前たちは世の中では呆れるほど絶対的な力を与えられてきたかもしれないが、
ここでもそんなものが与えられると思ったらとんでもない間違いだから、自惚れるのはいい加減にした方がよいな。
奴隷の千倍も従順になって、ありとあらゆる恥辱を覚悟するとよいのだ」

「我々はかつて美や神聖さに対して少しばかりお追従を言ったこともあったかもしれないが、
そんなものは元々大嫌いだから幻影が官能を満足させてしまうと、
自尊心と神を恐れない道楽精神が頭をもたげてきてそんな下らないものなどぶち壊してしまうのさ。
軽蔑と憎悪が心のなかに湧いてきて、想像によって作り出された魅力など追い払ってしまうのだ」

「我々の中で一番罪の軽い人間でも、お前達にはとても数え切れないほどの破廉恥な行為に汚れているのだ。
だから、そうした人間にとって一人の女の生命ぐらい、そうだ、地球上に住むすべての女の生命だってどうでもいいのさ。
一匹の蝿を殺すのと同じくらいどうでもいいことなのだ」

「もしお前達が不行跡を働いて我々を怒らせればどんな目に遭うか、今から覚悟しておくがいい。
それに、お前達の中には我々との人間的な絆を鼻にかけて大目に見て貰えるだろうと期待している女がいるかもしれないが、
そんなことを当てにしているととんでもない過ちを犯す事になるぞ。
我々のような人間にとって人間的な絆など少しも神聖ではないのだ」

「お前達はいつも震えて、我々の意向を察し、何事にも服従し、先を見越して行動すればよいのだ」

「要するに、我々はお前達を人間として見ているのではなく、動物として見ているのだ。
望みのままに奉仕させ、反抗するときには遠慮なく一発食らわせるのが動物に対する扱い方というものさ」


現在の社会ではまともに発せられる内容の言葉ではございません。
いやおそらく当時のフランスでもそうでございましょう。
しかしながら、これほどまでに徹底的な女性蔑視の文章を読んでおりますと、
逆に嫌悪感が湧いてこないから不思議でございます。
ここまで腹をくくって言葉を発せられると、
「そうか。それはそれで君の考えと感性だからな」と思ってしまうのでございます。
フェミニズムが有効なのは相手にいくらかでも言葉が届くからで、
こんな訓示を垂れるブランジ公爵にはフェミニズムなど鼻で笑われながら踏み潰されそうでございます。
2013-04-16(Tue)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ⑥

なにやら後半は随分と学術的な目的のように聞こえますが、
要は性に関するあらゆる話を聞いて淫猥な想像力を掻き立てて、
よりいっそう興奮し、より深い快楽を味わいたいということでございましょう。
ここも私は頷けるところでございます。
AVや写真をただ見て起こる受動的な興奮より、
想像によって掻き立てられる能動的な興奮のほうが遥かに興奮度が高いものでございます。
ただ、想像力を掻き立ててエロを発生させるのはなかなか難しゅうございます。
四人の道楽者たちは、四人の語り女たちに話をさせてそれをするわけでございます。
しかし道楽者たちは本当にただただ淫猥と快楽だけが目的だったのでしょうか。
エロの中には「何か」がある、
人間にとって自分にとって重要な「何か」がある、
追求し解明しないではいられない「何か」がある―
道楽者たち、いえ、サドはそう感じて止むに止まれずこの物語を書いているような気がするのでございます。
2013-04-14(Sun)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ⑤

サドは「序文」で物語の骨格をしっかりと描いておこうとしているようです。
おおよそ登場人物の風貌は説明されております。
特に四人の権力者についてはサド自身が「四人とも男色趣味があり、男女のお尻と裏門に夢中」と説明、
付け加えますと、女の子より男の子が好きで玉門(おまんこ)はあまり好きではなく時には嫌悪感さえ催すようでございます。
そしてサド自身が好きなのでしょう、よくヒップの美しさを賛美する描写が出て参ります。
私も(女性の)ヒップが大好きですのでこのあたりはサドに肩入れできるところでございます。

さて、四人の道楽者たちによる狂宴の目的についてもサドは説明します。

「彼ら(道楽者たち)は、
想像力が燃え上れば人間の欲情は図り知れないほど変化するに違いないだろう、
人間にはそれぞれ様々な癖や趣味があり、その間に著しい相違が見られるが、
欲情ほどそうした違いが著しいものはないのではなかろうか、
この際、そうした背徳や逸脱行為の一つ一つをはっきり分離し、分類して、詳細に調べることができるならば、
風俗の研究に関する極めて優れた、おそらく最も興味のある仕事になるに違いないだろう、
そのためには、あらゆる放埒の限りを知り尽くし、しかもそれを分析し、拡大し、段階を付けて物語り、
さらにその間に面白さという味をつけることができる人物を探し出すことが必要だ、
と考えたのです。」
2013-04-11(Thu)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ④

「序文」は登場人物たちや、4ヶ月のあいだ行われる狂宴の舞台になる館などの説明に費やされています。

*宴を主催する四人の権力者*
・ブランジ公爵(50)
(物語の中心人物。精力絶倫。金と快楽のために母親、妹、三人の妻を殺害)
・司教(45)
(公爵の弟。華奢な体格。女役を好む男色家。友人が託した財産目当てにその子供たちを殺害)
・キュルヴァル法院長(60)
(過度の放蕩のために痴呆状態。不潔好み。ある生娘を犯し、その両親と共に殺害)
・徴税請負人デュルセ(53)
(公爵の親友。10cmの一物はほとんど不能。もっぱら女役。財産目当てに母、妻、姪を殺害)

その他、
・彼らの四人の娘たち
(結束を固めるためお互いの妻でもある)
・四人の語り女
(毎夜、淫猥な話を語る)
・四人の召使女
・八人の馬蔵
(登場するのはその内の四人)
・八人の娘たち
(公爵たちの相手をするため各地から集められ厳選された十代前半の少女たち)
・八人の少年たち
(同上)

以上の人物たちが11月から2月の120日間、
人里離れた山奥の、堀で囲われドアというドアを塗り固めた館の中で、
ただ四人の権力者たちの欲望と快楽の実現のために狂宴を繰り広げます。
ほんの人物紹介の「序文」でございますがもうすでに目を背けたくなるような残酷な描写もあり、
これはただの卑猥でいやらしいだけの生やさしいポルノグラフィーではないと感じられるのでございます。
エッチだとかスケベなどという表現はまるで子供のおもちゃのように踏み潰される思いがいたします。
ただならぬ雰囲気が立ち込めてまるで「さぁ、お前はこれから先を読むか、やめるか?」と迫られているようでもあります。
そして私はもちろん…禁断の扉を開ける思いで先を読み進めるのでございます。
2013-03-31(Sun)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ③

ブランジ公爵の演説はまだ続きますがこれぐらいにしておきましょう。
サドは自分の行為が犯罪であり神に罰せられるような行いであると世の中から烙印を押されたとき、
リベルタン(信仰及び宗教的戒律に従うことを拒否して自由に振舞う精神を信条とする者)になることを心に誓ったそうでございます。
このブランジ公爵の言葉は、神に唾を吐きかけるがごとくサドのリベルタン宣言のようにも聞こえるではありませんか。
これは我々日本人とは違って、キリスト教世界においては命懸けの宣言だと思うのでございます。
また、快楽のためには何物も辞さない強烈な快楽主義者の姿がここにあります。
そしてここで嘲笑され罵倒されている、「いつもふらふら」している人間とは自分の事ではないかと私は赤面する思いでございました。
リベルタンでなくても快楽主義者でなくても、私のようなごく平凡な人間でも、
このブランジ公爵のような生き方をするべきではないか、そう思うのでございます。
さて、快楽に対してこのような強靭な精神と信念を持った公爵が三人の仲間と餌食になる大勢の犠牲者とともに120日の間、
人里離れた館で恐ろしくおぞましい狂宴を繰り広げる―それがこの『ソドムの百二十日』の物語でございます。
2013-03-29(Fri)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ②

この作品は「序文」「第一部」「第二部」「第三部」「第四部」という構成になっております。
サドという人物はその名がSMのSの語源になった人物でありまして、
その猟奇的変態的行為によって、社会制度や時代もありますが一度は死刑判決を受けた程の半生を送っております。
サドは二十代の頃から逮捕されたり投獄されたりして人生の最期はシャラントン精神病院だったそうでございます。
この『ソドム』はサドが45才の頃、
当時投獄されていたバスティーユ監獄のなかで看守の目を盗みながら書かれました。

「序文」の中で非常に感銘を受けた部分がございます。
それはこの物語の中心人物、精力絶倫で極悪非道のブランジ公爵がのたまう科白でして、
おそらく著作権的には問題ないでしょう、余りに感動的なのでここにその一部を転載させていただきます。

**********************************

公爵は常々語っていました。
「人間がこの世で本当に幸福であろうとするならば、一切の悪徳に身を任せるだけではなく、自分に対してたった一つの美徳も許してはならないのだ。
常に悪事を行うように心掛けるばかりではなく、決して善を行わないということが肝腎だ。
世の中には、普段美徳を行うことを心掛けながらときたま情欲に駆られて悪の道に引きずり込まれてしまう人間がいるが、
そうした人間の魂は過ちから醒めるとたちまち平安に戻り、又無事平穏に美徳の道を歩み直してしまうのだ。
だから、彼らは善と悪との戦いから過ちへ、過ちから後悔へとさまよい歩いて、最後には、自分はこの世でどんな役割を果たして来たのかをも正確に言い切ることもなく死んでしまうのさ。
そんな人間は不幸に決まっているよ。
いつもふらふらし、いつも迷って、朝になると昨夜のことを嫌悪して一生を終わってしまうだけなのだ。
そうした連中は、例え快楽を味わっても必ず後悔するのがお定まりだから、快楽に身を任せながら絶えず震えているのさ。
ちょうど、悪事を行いながら善人になってしまい、善を行いながら悪人になってしまうようなものなのだよ。
私の性格はもっと強いから、私は決してガタつきはしないね。何を選ぶか決して迷いはしないね。
自分のすることには必ず快楽が伴うものだと確信しているから、後悔して快楽の味を薄めてしまうような馬鹿げた真似はしないよ。…(後略)」

(佐藤春夫訳『ソドムの百二十日』より)
2013-03-28(Thu)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ①


ソドムの百二十日ソドムの百二十日
(2002/07)
マルキドサド

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私はごくごく平凡な性癖の持ち主でありましてSMというものが全くわかりません。
それが最近、理解できないまでもSMはエロスの進化形ではないかと思ったのでございます。
動物的交尾から快楽を切り離したエロス、
それへ苦痛や被虐や羞恥を加えたSMはさらに人間的行為と言えるのではないでしょうか。
とにかく私はSMに対して急激に興味が湧き始めたのでございます。

マルキ・ド・サドの『ソドム―』(原題は『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』)は澁澤龍彦訳のものが有名ですが、
全体の約六分の一である「序文」の部分しか訳されておりません。
そこで完訳されている佐藤春夫訳『ソドム―』を購入いたしました。
が、これが大作でありまして、読むのが遅い私にはいつ読了できることやら。
また、感想文も一筋縄では行きそうもないので読み進めながら覚え書きも兼ねて感想を書いていくことにいたしました。
現在「序文」を読んでいるところでございますがSMというものは、
ただ暴力的であったり変態的であったり―ではとても収まらないもののようでございます。
そこには人間心理…というより人間存在に関わる何かがあるように感じられるのでございます。
2012-06-25(Mon)

八神ひろき 『G-taste』

G‐Best ―G‐tasteベストセレクション― ([特装版コミック])G‐Best ―G‐tasteベストセレクション― ([特装版コミック])
(2010/11/22)
八神 ひろき

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八神ひろきの『G-taste』を初めて書店で見かけた時、
ついに欲しかったモノを手に入れた!と感じたぐらいに感動したのを覚えております。
それほど自分が追い求めている自分でも分からないエロの世界が、
理想的な絵柄とともに具現化されておりました。
それまでは、目に付くエロ画や本を手にしては「いや、これではない」
といった落胆のようなものを感じ続けていたのでございます。
当時出始めていたフェチ的観点からのエロ世界が濃厚で、
特にヒップのアップ、それを衣服のシワで強調する手法は真新しくショッキングでさえありました。
そのあたりは今でも私の作風に影響を残しております。
そしてパソコンによる着色は、
当時何も知らなかった私には瞠目する程の鮮やかさでございました。
何よりも私が感動したのは作者の作画の動機でございます。
日常に見る女性の姿を、
いやらしい男の視線と妄想のまま、
そのいやらしい気持ちをいやらしいままに描いてみせたその表現方法が、
私の探していたものだった気がいたします。

このシリーズは全7巻、第1巻初版が1997年でございます。
初めはショッキングなほどのエロパワーを秘めた作品も、
徐々に力を失って行きついに終わってしまうわけですが、
私も最後は惰性で買っておりました。
一つには時代がこのGティストに追いついたせいかも知れませぬ。

先ほど、このエッセイを描くために検索してみましたら、
2010年に『G-Best』というタイトルでDVD付きの編集本として出ているようでございます。
あの八神ひろきもエロから完全に撤退したのかと少々落胆しておりましたので嬉しく感じましたです。
しかしもう魅力はあまり感じておりません。
すでに私は私の世界を掴んでおりますゆえ。

**************

さて、『お絹と千吉』もいよいよ佳境となり、
クライマックスのアナルセックスに突入でございます。
ここからはカラーになります。
明日よりラストまで一気にアップして参りましょう。
2012-06-14(Thu)

空山 基『VENOM』

VENOM―空山基作品集VENOM―空山基作品集
(2002/11)
空山 基

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空山基の絵には長い間惑乱されておりました。
正直言って作品世界に魅了されていたのではなく、
その描写力と表現に憧れていたのでございました。
この『VENOM』には、空山氏が一枚の絵を仕上げるまでを
写真を載せながら解説しているパートがあります。
何度それを繰り返し読んだことでございましょう。
そしてエアーブラシとリキテックスを買い込んで何枚か描いてみたりもいたしましたが、
当然のごとく失敗ばかりでございました。
10年ほどが経ち、パソコンで絵を描くようになってようやく
「空山風」に描くことが出来るようになったのでございます。
空山基から学んだこと―下絵はしっかり描き込んで色は薄く塗り重ねていく…。
絵柄は全然違いますが、私は現在そのように描いております。
いずれそれを捨てるかも知れませぬが。

別にアップした絵は、同時期の作品集『NAGA』の一枚を模写したものでございます。
途中まで描いて「これ以上描く必要はない」と感じて止めました。

この空山基の作風が、いわゆるピンナップ・アートの流れだと気付いたのはごく最近のことでございます。
戦場の兵士たちが部屋の壁などに貼る少しエロティックなピンナップ。
だから対象が女性で内容がエロティックなのはそのせいでございますね。
もっとも、空山氏の作品に私はエロさをほとんど感じませぬが。
2012-05-27(Sun)

バタイユ『眼球譚』

眼球譚(初稿) (河出文庫)眼球譚(初稿) (河出文庫)
(2003/05)
ジョルジュ バタイユ

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他の人間にとってはこの世界はまっとうなものに思われる、
その訳はまっとうな人間は去勢された目をしているからだ。
彼らが淫らなものを恐れるのはそのためだ。
(本文より)
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この歳になるまで、エロはエロであって他の何物でもない、と思っておりました。
ここで言う私の「エロ」は女性の美しさに感じる淫猥な感情のことでございます。
つまりはいわゆる「助平心」であります。
ですのでエロ画にアートやその他の要素を感じると不純な感じがし、
逆にそんな作品を軽蔑したものでございます。
より純粋に「助平」的であること、それが私のエロでございました。

そんな考えでしたので、以前からSMやスカトロは果たしてエロなのだろうか?と疑問を感じておりました。
嗜好の問題もあります。
私は至って平凡な性の持ち主でしてSMやスカトロ、
ホモセクシャルやロリータに性的なものを感じないのでございます。
そのせいもございましょうが、SMやスカトロのどこにエロがあるのか全く分からなかったのでございます。

前回ご紹介した澁澤龍彦『エロティシズム』で、
「セクシュアリティとは生物学的な概念、エロティシズムとは心理学的な概念」と学び、なるほどと合点いたしました。
目からウロコでございました。
あの苦痛や虐待や汚穢が心理的な性的快楽になる、それが「人間」なのかもしれない、と気付いたのでございます。


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「聖龕の中には聖体パンがおさまっている、それに葡萄酒を入れる聖餐杯も揃っている。」
「淫水の匂いだわ。」
無酵母パンを嗅ぎながら、シモーヌは言うのだった。
(本文より)
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バタイユの『眼球譚』といいますともっぱら、
作中に度々登場する眼球や卵や睾丸の象徴性や、
前半部で死んでしまう女友だちのマルセルの死体の横で、
私(主人公)とシモーヌ(主人公の愛人)がセックスをするシーンなどが取り上げられますが、
そんな部分にこだわる人たちは恐らくこの小説に感動できなかったのではないかと思われます。

私が衝撃を受けたのは後半部分でして、
闘牛の場面と、それに続く神父を犯して穢して貶める場面でございます。

闘牛の章では死とエロスが、
神父の章では背徳とエロスが、
それぞれ強烈に描かれております。

第10章「闘牛士の目」では、
牛に突かれて腹わたをぶちまける馬、
取り出した牛の睾丸の一つを齧り一つを陰部に入れるシモーヌ、
牛に突き殺された闘牛士の死体とその垂れた右目、
同時に起こるシモーヌの激しいオルガスムスが描かれます。
このとんでもないイメージの大きさに今までぼんやり抱いてきた自分のエロス像が吹っ飛んでしまいました。
そしてやはりエロスは極めて死に近いものだとますます実感したのでございます。

第12章では神父がシモーヌや主人公たちに地獄のような辱めを受けます。
聖体パンの匂いをシモーヌは淫水(精液)の匂いだと言う。
はっ、といたしました。
性と聖は非常に近いのではないでしょうか。
これは悪魔と天使の関係に似ているのではないでしょうか。
ゆえに聖は性を忌み嫌い押さえつけ禁止する。
いずれ性の反乱は目に見えておりましょう。
自由を主張し、聖の偽善性を暴き立てたい欲求に駆られて。

この章を読んでいて私は映画『エクソシスト』を思い出しました。
悪魔に乗り移られた少女が神父に向かって汚い背徳的な言葉をわめきちらし、
ロザリオで自らのおまんこを何度も突き刺す。
日本人の我々にはこの映画の本質は理解しきれないと思うのですが、
キリスト教社会でのこの表現は恐ろしく衝撃的だったに違いありません。


今回この『眼球譚』を読みまして、
エロスをただの淫猥な情欲としか捉えていなかった自分の幼さを思い知らされたのでございます。
エロスとは何か。
それを知るにつけ私の作風も変わるでしょうか?
まだ見ぬ自分の作品を楽しみにしている私がここに居るのでございます。
2012-05-23(Wed)

澁澤龍彦『エロティシズム』

エロティシズム (中公文庫)エロティシズム (中公文庫)
(1996/11)
澁澤 龍彦

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エロスについて描くだけでなく、考え初めたのはネットに自分の作品を発表し始めた最近のことでございます。
このブログではそんなエロスについて読んだり考えたりしたことも載せていきたいと思います。
ご意見ご感想をお聞かせ願えれば嬉しゅうございます。

****************

澁澤龍彦のこの本は1967年に書かれたものですが、私が読んだのは1984年の中公文庫版でございます。
後半はややダレますが、前半はエロスについての入門書としては読みやすく秀逸な出来だと感じます。

澁澤龍彦は明晰な頭脳により膨大な資料からの引用によって、
対象のテーマを浮かび上がらせるといった手法が得意であります。

私もそれを真似て、あとはこの本からの引用としましょう。
下手な感想よりその方がよほどマシかと思われますゆえ。

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・愛欲の行為はそれ自体では別にエロティックではない。
そのイメージを喚起したり呼び寄せたり暗示したり、
さらにはそれを表現したりすることがエロティックなのである。(ロー・デュカ)

・エロティシズムについては、それが死にまで至る生の称揚だと言うことができる。(バタイユ)

・ごく簡単に割り切って言ってしまえば、
セクシュアリティとは生物学的な概念で、エロティシズムとは心理学的な概念である、
といえるかもしれない。

・バタイユが《悪魔的》という言葉を使ったのは、人間のみの活動であるエロティシズムが、
本質的に死と結びついていることを言わんがためであったと思われる。

・エロティシズムはあらゆる実用主義的な活動(生殖等、社会的活動)に対立するものであって、
ただそれ自体を目的とする狂気の欲望なのだ。

・人間の男性が女性に欲望を感じるための最も大きな働きを示すものは、
嗅覚でも触覚でも聴覚でもなくもっぱら目の働き、視覚である。

・人間は愛の行為においても生殖本能とは別の衝動、
つまり快楽の欲求によって動かされているのである。

・エロティシズムとは死に向かう暴力であり禁止に対する侵犯である、
という考えをバタイユはあくまで頑固に主張する。

・犠牲を捧げる男は短刀を持っており、女を征服する男はペニスを持っている。
殺戮の過程も肉欲の行為の過程も最後は常に対象の死、つまり肉の痙攣によって終わる。

・そして人間は…タブーを犯すことに純粋な満足を覚えるようになる。
重大なタブーを犯せば犯すほど性の満足は強烈になる。
正常は異常になり異常は正常になり、この文明の弁証法の内にエロティシズムは陶冶される。

・エロティシズムは瞬間の燃焼というよりもむしろ瞬間と永遠を一致させる試みであり、
日常的世界の外にあるエクスタシー(脱我)への希求であるからあくまで時間と秩序に対する敵なのである。
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歓喜天翁

Author:歓喜天翁
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