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2014-09-30(Tue)

RT 2014.09.30.

<「FC2」国内会社捜索=米社ダミーか、創業者ら立件視野-わいせつ中継ほう助容疑>

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2014093000172

2014-09-24(Wed)

tubuyaki14.09.24.

煩悩を拒絶して痩せ細るのではなく、
煩悩を食らって血肉とせよ。
煩悩の中にこそ救いがある。

2014-09-20(Sat)

日記~【これが私の生きる価値】


何度か書きましたが私は春画を思春期の十代から描き続けて参りました。

それ以来何十年、私はこれを忌まわしい悪癖と思い込み、

描いては止めようと思い止めようと思ってはまた描き、を続けてきたのでございます。

どこにも救いがない罪悪感と背徳感を感じながら春画を描いておりました。

ご理解頂けるでしょうか、心の底から忌まわしく思いそこから逃れたいと思うものに手を染めてしまう苦しみを。

処分し忘れた自作の春画を誰かに見つかりそうになる、という悪夢をよく見たものでございます。

私にとって自分の描くエロ絵は「絵」ではなくただの悪癖、としか認めておりませんでした。

ところが現在は否定しようのない自分自身の表現として春画を認めてきていることに気付いたのでございます。

それは皆様に喜んで頂ける作品を描こうという思いで春画を描いている自分に気付いたからでございます。

罪悪感と背徳感に苛まれながら誰かに見せるどころか必死に隠しながら、

自分自身の自己満足のためだけに描いていてはそんな思いは絶対に生まれるわけがなかったのでございます。


私が自分自身から救われるためには「表現」しなければならなかったのがいまやっとわかった気がいたします。


そして自分自身が救われるためには自分の力だけでは不可能なことも。

恐らく人間はそういう仕組みに出来ているのでございましょう。


私を救ってくださったのは私の「絵」を愛でてくださった皆様でございます。

これからも自分のためだけではなく、まず第一番に私の春画を楽しみにしてくださる皆様のために筆を執る所存でございます。


あれほど忌み嫌って何十年ものあいだ捨てようとしてきた自分の「悪癖」―春画―を、

いまでは「絶対に失いたくない」と考えている私でございます。

2014-09-18(Thu)

【桜子と男たちの劣情~閲覧禁止札付き】

【桜子と男たちの劣情(閲覧禁止札付き)】

バックに画像を付けてみたヴァージョンでございます。

ちゃんとした別ヴァージョンとして考えたのですが作ってみると、

どうも失敗してしまった気がして参りました。

本来ボツにするところですが自主規制のお披露目も兼ねてアップさせて頂きます。

私が自主規制のときに使うのがこの自作の「閲覧禁止札」でございます。

エロ作品において「性器」にのみ眼点を置いている浅はかさと馬鹿馬鹿しさ、

逆に性器を隠しても「エロ」自体は隠せないことを知らしめるための皮肉でもあります。

私が陰部を隠す規制に憤慨するのはエロに関してではなく

(エロはそこにあるわけではないので)、

自分の「表現」が完全に果たせないことにあるのでございます。

例えば、失敗したと思うこの作品にせよ、

バックに付けた勃起ペニスたちはこの桜子の後姿に欲情する男たちの表現であります。

または桜子が経験する(した)男たち、と妄想してもよいでしょう。

桜子にそれがフィードバックされ彼女の後ろ姿のエロにより深みが加わるのでございます。

それがカットの憂き目に合うと全てが台無しになり、

何よりも作品の品位が下がるのでございます。

作品に対する規制は、作者にとっては作品が台無しにされ汚される行為といえましょう。


しかし仕方がございません、私も逮捕はされたくありません。

情けなくも誠に遺憾でございますが「札」を貼らせて頂きます。

2014-09-17(Wed)

【走る桜子】

【走る桜子】
昨年2013・12・29にアップしました【桜子、後ろ姿】を元に描き上げました。
彼女は過去に私が想いを寄せた女性でございます。
作品の質を向上させるのは作者の情念次第といえましょう。
私はこの作品を描き続けているあいだ彼女のことを思い続けておりました。
2014-09-15(Mon)

tubuyaki14.09.15.

歓喜天翁へ。

お前はまた自分を見失いかけている。

自由に。
思うがままに。
無意識に。

これが最良の描画法なのだ。
2014-09-14(Sun)

日記~【私の中の女性性】

春画を描いている最中の私は猛烈な興奮状態にあります。

それは春画を描いている時にだけ訪れる興奮でございます。

それをずっと私は男性性の興奮だと疑う余地もなく思っておりましたが、

最近それはもしかしたら違うかもしれないと感じるようになって参りました。

例えば犯している男と犯されている女がモチーフの作品を描いていてもよく考えてみれば、

すべて私の空想で描いているわけですから犯されている女性も決して完全な客体ではありえません。

それを発見したのはある時、今までは100%男の立場で相手である女性を犯しているという感覚だったのが、

私自身が作中の犯されている女性になりきって女性のエクスタシーを感じているのに気付いた時でありました。

考えてみればそれは当たり前のことかもしれません。

作中の女性に感情移入出来なければエクスタシーに酔う女性など描けるわけがないのでございます。

また、女性の単体の作品にしても、女性の猥褻な躰を視たいという男の私の感情とともに、

「あたしの躰を見て!」という私の中の女が居る気がするのでございます。

理屈ではなく最近は、春画を描いていても「犯されている自分」を感じるのでございます。


私は至ってノーマルな性癖の持ち主の平凡な人間でございますが、

こと春画に関してはこの「自分の中の女」を強く意識した方が良いようでございます。


自分の中の男と女―陰と陽―を私は描いているのかもしれません。
2014-09-05(Fri)

【お知らせ】

先の日記にも書きました通り、

作品にボカシ等を施していくことに決心いたしました。

来月からその作業を始めていこうと考えております。

一度に全部はできませんので、発表の古い順から順次すすめていく所存でございます。

どうぞご理解くださりませ。
2014-09-05(Fri)

日記~【見果てぬ夢】

自分の作品を本にしたり印刷して額装するのが一つの夢でございます。

それで、同人誌のサイトなどを時々のぞいたりするのですが、

とても私の夢は叶いそうもありません。

その理由は「規制」でございます。


去年2013年7月にコアマガジンの編集者が逮捕されてから特に、

同人誌(と印刷業界)の自主規制が強くなっております。

もちろん表向きは「法律遵守」「青少年育成のため」でございますが、

たとえば同人専門の印刷会社さん発信の自主規制に関する文章を読んでおりますと、

「挙げられたくない」という、お上に対する恐怖心がバンバン伝わって参ります。


実のところ私も迷っております。

現在のところこのブログにはノーカットでアップしておりますがこの先どうするか分かりません。

性器にモザイク等を入れるかもしれません。

むかし、規制を受けた作家が筆を折る、つまり作家活動をやめる事件があって、

私は「違う手段で規制を逆手に取りながら書いてこそ作家」と思いましたが、

そういう話ではないことがようやく分かった気がいたします。

私にとって「絵」は完全な「自由」の世界なのでございます。

これは、何をやってもいいとかいう意味ではなく、純粋に精神的な意味でございます。

「絵」こそ私自身でありまして、そこに一片の偽りも介入させるわけには参りません。

ですから“規制を逆手に取って描く”ような芸当は「絵」と自分に距離がある者にしかできないことでございます。

自分に嘘をついて描くことなど出来ません。

上記の作家氏も同じ思いだったのだろうと今になって思うのでございます。

私は自由に描くことをやめられない、しかし挙げられずに作品を発表したい。

ですから不本意ですが、ギリギリの選択で性器部分のカットをするかも知れませぬ。

大きな声では言えませぬが、念のため今のうちに「これは」と思われる作品はDLしておいてくださいませ。


さて、あるいは同人誌でノーカット作品を発表できるならこんなに悩みませぬ。

先に書きましたように紙媒体のほうが尚さら規制が強いありさまでございます。

つまり私には自分の完全な作品の発表の場が無い、といえるのです。

そのままの作品を発表したい―

情けないことに今やこれが夢となりつつあります。


そんなことを考えておりましたらハッと気付きました。

エロ規制で我々は戦々恐々としているわけでございますが、

これは結局のところ「お上には逆らうな」という空気ではないでしょうか。

今回の内閣改造でなおさらいろいろな規制が強くなる気もいたします。

同人誌、出版社、エロ作家がどしどし家宅捜索を受け盛大に逮捕されればされるほど、

エロなど全く関係のない世間一般の人々も「とにかくお上には逆らうな」と思うのではないでしょうか。

“こちら側”に身を置けばそれがよく分かるのでございます。


そして私は夢見るのでございます。

規制を逆手に取るのでもない、

自分に嘘をついて描くのでもない、

自分の思うまま性器もエロも自由に描いて尚且つ権力も法も手出しができなくなるほどの作品。

芸術とかアートなどではありませぬ、言ってみれば「崇高なるエロ作品」。

それがどんなものか自分にも解りませぬ。

ただ、

権力さえ黙らせるほどエロが極限まで極まって自ずと崇高さを発しているような作品が描けたら…。

と、最近の私はそんな見果てぬ夢を夢見ているのでございます。
2014-09-03(Wed)

tubuyaki14.09.03.

歓喜天翁へ。
彼らは明るい陽の当たる場所で大きく翼を広げて空へ羽ばたく絵師たちだ。
お前は陽の当たらぬ暗い日陰の泥の中に美しい花を咲かせればよい。
それに全てを捧げろ。
2014-09-02(Tue)

日記~【むしろエロをエロとして描いているものは良い】

9月1日、『ビートたけしのTVタックル』で「ロリコン・暴力 アニメに規制は必要か? 徹底討論」をテーマに激論が交わされたそうでございます。

私は観ておりませんので深く語ることは出来ませんが、この番組内での江川達也氏の発言を取り上げた記事を目にしまして、

「その通り!」とあまりにも感銘いたしましたので取り上げさせていただく次第でございます。

江川氏はこう仰ったそうでございます。


**************

「悪いことを正当化させてしまう認知のゆがみがあり、良いアニメと悪いアニメがあるのだが、むしろエロをエロとして描いているものは良い」

「プロの目から見るとわかるんですよ。エロとバイオレンスが巧妙に隠されている」

「痛みを感じる暴力描写や、性欲を抱かせるロリコン・萌え描写はかえって健全。それよりも真に有害なのは宮崎アニメ。ロリコンを隠して健全な映像に仕上げているから、欲望が正当化されてしまう」


《「悪いのは宮崎アニメですよ!」 アニメ規制がテーマの『TVタックル』にて江川達也先生が持論を展開http://getnews.jp/archives/658147》

**************


私はこの番組を観ておりませんので江川氏がこの発言をどんな文脈で語られたのか分かりません。

ですので番組内容は別にしてこの記事に書かれたこの発言文のみを対象に感想を述べさせていただきますが、

まさしくその通りだと私も思います。

目からうろこの落ちる思いがしたのは「むしろエロをエロとして描いているものは良い」という一文でございます。

なぜ今までこれに気づかなかったのかと自分の愚鈍さを呪ったほどでございます。

エロをエロとして描いている作品なら、それを鑑賞する者はそれがエロだと認識するわけですし、

嫌なら見ない、見たければ見る。

最悪ショックを受けたとしても「あのエロ表現にこれぐらいのショックを受けた」と自分で理解する。

その後の自分の行動も選択判断理解ができる。

しかし「巧妙に隠されている」エロ(や暴力)作品を観た場合、それをエロ(や暴力)と理解できぬまま「欲望が正当化されてしまう」可能性がある。

たとえば私などは、あの分厚い服の上からでもそれと分かるナウシカの巨乳ぶりはいち早く見抜きましたが、

まだまだ見抜けずに巧妙に刷り込まれているエロや暴力があるかもしれませぬ。


それはさておき、この江川発言で私が一番得たものは自分の表現に対する自信でございます。

少なくとも私はエロをエロとして全開で表現しております。

―それは創作としてまったく正しく健全なこと。


私はまた一つエロの壁を乗り越えられたようでございます。
プロフィール

歓喜天翁

Author:歓喜天翁
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自作のエロ画春画を中心に、その他エロに関わることを載せていく所存でございます。
貴方様の心の憩いの場になりましたら嬉しゅうございます。
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