2ntブログ
2013-04-25(Thu)

【DEATH MASK 20130425】

【DEATH MASK 20130425】
いわゆる逝き顔を「DEATH MASK」と表現いたしました。
女性の「逝って」いる表情は死顔そっくりだと思うのでございます。
これはエロスと死が近似な存在である証明ではないでしょうか。
また我々は、それが「死顔」だと怖気を振るうのに、
「逝き顔」だと興奮するのは不思議でございます。
2013-04-22(Mon)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ⑨

「序文」の最後にサドがわれわれ読者に語りかけます。


「読者の皆さん、この世が始まって以来の最も淫らな物語の始まりに備えて、心と頭の整理をしておいて頂きたいのです。
このような物語は古代にも近代にも凡そ類を見ないものでしょう。」


ずいぶんな自信でございます。
しかしこれはまっとうな自己評価と言えましょう。
ただ私はよくわからなかったのでございます。
フランス革命前夜、
何年も刑務所に入れられている人間が、
誰が読むでもない出版の当てがあるでもない小説をこれほどの自信を持って、
まだ見ぬ読者に向かって語れるのか、と。
実際、12mの長さに貼り合わされた巻紙に蟻のような小さい文字で書き綴られたこの『ソドムの百二十日』が日の目を見るのは、
書かれてから100年後なのでございます。


「読者がその実体もよくご存知なしに絶えず口になさっている、
あの造化の神と呼ばれる馬鹿げた存在が私達に強く勧めている尊敬すべき美徳は、
はっきりとこの物語から締め出されているのです。」

「読者にとって何の差異もないように見える情欲でも、よく研究すれば、例え細微でも必ず差異があり、
それぞれ独特な洗練された趣きを持っているものです。」

「読者がこれからこの物語の中でご覧になる多くの逸脱行為の中にはたぶん気に入らないものもたくさんあることでしょうが、
しかし又思わず精水を洩らさずにはいられないほど興奮させる行為もたくさんあるのです。
作者はそれでなければなりません。」


どうやら彼は、まだ見ぬ読者の「精水を洩らさずにはいられないほど興奮させる」ことを使命としているようで、
「作者はそれでなければなりません」と断言するこのサドの言葉を読んで私は非常な親近感を持ったのでございます。
これは、より「抜ける」エロい春画を目指している現在の私の姿ではありませんか。
エロ絵師はそれでなければなりません。

サドの状況なども想像すると、彼がこの物語を書かずにいられなかった心理も興味深うございます。
読み進めば果してその一端でもわかるでしょうか。

いよいよ「序文」が10月31日で終り、11月1日がやってきます。
「第一部」、饗宴の始まりでございます。
2013-04-20(Sat)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ⑧

公爵の“訓示”は徹底的な女性蔑視から反抗的な無神論で締めくくられます。
科学的論理的な無神論などでは到底なく、
公爵の場合は神に対する憎悪が感じられるのでございます。
道徳的なもの、神聖なものには本能的に嫌悪感が沸くようなのです。


「前にも言った通り、宗教的な行為と思われるような行為はどんな行為でも一切禁止するぞ。
予め警告しておくが、宗教的な行為はあらゆる罪の中で最も厳しく処罰されるのだぞ。
何人かの馬鹿な女は神という恥ずべき観念を捨てる決心もつかず、
思い切って宗教を嫌う気持ちにもなれずにいるが、私はよく知っているよ。
私はきっぱりと言っておくが、そういう女は厳重に吟味するぞ。
もし運悪く現場を押さえられたら、死罪よりも恐ろしいどんなにひどい仕打ちが待っているか知れないぞ。
そうした馬鹿な女は早いところ料簡した方がよいな。
神の存在などという阿呆らしい観念にしがみついているのは、今日この世に二十ばかりの宗教に属している連中しかいないではないか。
彼らが頼りにしている宗教というものは偽善者達が発明したお伽話に過ぎないし、
我々を騙そうとしている意図があまりにも見え見えではないか。
自分でよく判断してみるとよい。
もし神が存在するとしたら、もし神が全能であるとしたら、神は、
神の栄光であり、お前達が誇りにしている美徳が犠牲に供されようとしているのを何故放置しておくのだろうか。
全能といわれる神は、俺のような一個の弱い被造者、神から見れば象の目の中にいるダニのような憐れな存在が、一日中、
神を侮辱し、挑戦し、無視し、反抗するのを黙って見ているのだろうか。
どうだ、お前達、そんなことがあるはずはないではないか。」


私はエロスをテーマにこの感想文を書いているわけでございますが、
公爵の女性蔑視や神に対する憎悪、
これらもエロスに深く根ざしていると感じるのでございます。
春画を発表し他人様に視て頂くようになってから私は真剣にエロスを考え始めました。
そうするとどうしても人間感情や心理、人間存在の本質に行き当たるのでございます。
私は現在ではエロスに、美と宗教と生と死を感じるようになっております。
この『ソドムの百二十日』は私に新しいエロスの一面を見せてくれるのではないだろうか―
この本は私にとって爆薬のような破壊力に満ちているのではないだろうか―
そんな予感がするのでございます。
2013-04-18(Thu)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ⑦

「序文」の最後は、館内の女たちに対するブランジ公爵の“訓示”で終わっております。
開口一番、

「お前達は我々の快楽を満たすために鎖で繋がれている弱い存在なのだ」

という強烈な女性蔑視の言葉が発せられます。
この訓示では女性蔑視と、徹底的な無神論が述べられております。


「女のお前たちは世の中では呆れるほど絶対的な力を与えられてきたかもしれないが、
ここでもそんなものが与えられると思ったらとんでもない間違いだから、自惚れるのはいい加減にした方がよいな。
奴隷の千倍も従順になって、ありとあらゆる恥辱を覚悟するとよいのだ」

「我々はかつて美や神聖さに対して少しばかりお追従を言ったこともあったかもしれないが、
そんなものは元々大嫌いだから幻影が官能を満足させてしまうと、
自尊心と神を恐れない道楽精神が頭をもたげてきてそんな下らないものなどぶち壊してしまうのさ。
軽蔑と憎悪が心のなかに湧いてきて、想像によって作り出された魅力など追い払ってしまうのだ」

「我々の中で一番罪の軽い人間でも、お前達にはとても数え切れないほどの破廉恥な行為に汚れているのだ。
だから、そうした人間にとって一人の女の生命ぐらい、そうだ、地球上に住むすべての女の生命だってどうでもいいのさ。
一匹の蝿を殺すのと同じくらいどうでもいいことなのだ」

「もしお前達が不行跡を働いて我々を怒らせればどんな目に遭うか、今から覚悟しておくがいい。
それに、お前達の中には我々との人間的な絆を鼻にかけて大目に見て貰えるだろうと期待している女がいるかもしれないが、
そんなことを当てにしているととんでもない過ちを犯す事になるぞ。
我々のような人間にとって人間的な絆など少しも神聖ではないのだ」

「お前達はいつも震えて、我々の意向を察し、何事にも服従し、先を見越して行動すればよいのだ」

「要するに、我々はお前達を人間として見ているのではなく、動物として見ているのだ。
望みのままに奉仕させ、反抗するときには遠慮なく一発食らわせるのが動物に対する扱い方というものさ」


現在の社会ではまともに発せられる内容の言葉ではございません。
いやおそらく当時のフランスでもそうでございましょう。
しかしながら、これほどまでに徹底的な女性蔑視の文章を読んでおりますと、
逆に嫌悪感が湧いてこないから不思議でございます。
ここまで腹をくくって言葉を発せられると、
「そうか。それはそれで君の考えと感性だからな」と思ってしまうのでございます。
フェミニズムが有効なのは相手にいくらかでも言葉が届くからで、
こんな訓示を垂れるブランジ公爵にはフェミニズムなど鼻で笑われながら踏み潰されそうでございます。
2013-04-16(Tue)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ⑥

なにやら後半は随分と学術的な目的のように聞こえますが、
要は性に関するあらゆる話を聞いて淫猥な想像力を掻き立てて、
よりいっそう興奮し、より深い快楽を味わいたいということでございましょう。
ここも私は頷けるところでございます。
AVや写真をただ見て起こる受動的な興奮より、
想像によって掻き立てられる能動的な興奮のほうが遥かに興奮度が高いものでございます。
ただ、想像力を掻き立ててエロを発生させるのはなかなか難しゅうございます。
四人の道楽者たちは、四人の語り女たちに話をさせてそれをするわけでございます。
しかし道楽者たちは本当にただただ淫猥と快楽だけが目的だったのでしょうか。
エロの中には「何か」がある、
人間にとって自分にとって重要な「何か」がある、
追求し解明しないではいられない「何か」がある―
道楽者たち、いえ、サドはそう感じて止むに止まれずこの物語を書いているような気がするのでございます。
2013-04-14(Sun)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ⑤

サドは「序文」で物語の骨格をしっかりと描いておこうとしているようです。
おおよそ登場人物の風貌は説明されております。
特に四人の権力者についてはサド自身が「四人とも男色趣味があり、男女のお尻と裏門に夢中」と説明、
付け加えますと、女の子より男の子が好きで玉門(おまんこ)はあまり好きではなく時には嫌悪感さえ催すようでございます。
そしてサド自身が好きなのでしょう、よくヒップの美しさを賛美する描写が出て参ります。
私も(女性の)ヒップが大好きですのでこのあたりはサドに肩入れできるところでございます。

さて、四人の道楽者たちによる狂宴の目的についてもサドは説明します。

「彼ら(道楽者たち)は、
想像力が燃え上れば人間の欲情は図り知れないほど変化するに違いないだろう、
人間にはそれぞれ様々な癖や趣味があり、その間に著しい相違が見られるが、
欲情ほどそうした違いが著しいものはないのではなかろうか、
この際、そうした背徳や逸脱行為の一つ一つをはっきり分離し、分類して、詳細に調べることができるならば、
風俗の研究に関する極めて優れた、おそらく最も興味のある仕事になるに違いないだろう、
そのためには、あらゆる放埒の限りを知り尽くし、しかもそれを分析し、拡大し、段階を付けて物語り、
さらにその間に面白さという味をつけることができる人物を探し出すことが必要だ、
と考えたのです。」
2013-04-11(Thu)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ④

「序文」は登場人物たちや、4ヶ月のあいだ行われる狂宴の舞台になる館などの説明に費やされています。

*宴を主催する四人の権力者*
・ブランジ公爵(50)
(物語の中心人物。精力絶倫。金と快楽のために母親、妹、三人の妻を殺害)
・司教(45)
(公爵の弟。華奢な体格。女役を好む男色家。友人が託した財産目当てにその子供たちを殺害)
・キュルヴァル法院長(60)
(過度の放蕩のために痴呆状態。不潔好み。ある生娘を犯し、その両親と共に殺害)
・徴税請負人デュルセ(53)
(公爵の親友。10cmの一物はほとんど不能。もっぱら女役。財産目当てに母、妻、姪を殺害)

その他、
・彼らの四人の娘たち
(結束を固めるためお互いの妻でもある)
・四人の語り女
(毎夜、淫猥な話を語る)
・四人の召使女
・八人の馬蔵
(登場するのはその内の四人)
・八人の娘たち
(公爵たちの相手をするため各地から集められ厳選された十代前半の少女たち)
・八人の少年たち
(同上)

以上の人物たちが11月から2月の120日間、
人里離れた山奥の、堀で囲われドアというドアを塗り固めた館の中で、
ただ四人の権力者たちの欲望と快楽の実現のために狂宴を繰り広げます。
ほんの人物紹介の「序文」でございますがもうすでに目を背けたくなるような残酷な描写もあり、
これはただの卑猥でいやらしいだけの生やさしいポルノグラフィーではないと感じられるのでございます。
エッチだとかスケベなどという表現はまるで子供のおもちゃのように踏み潰される思いがいたします。
ただならぬ雰囲気が立ち込めてまるで「さぁ、お前はこれから先を読むか、やめるか?」と迫られているようでもあります。
そして私はもちろん…禁断の扉を開ける思いで先を読み進めるのでございます。
2013-04-08(Mon)

【ナメクジ男に犯される人妻・遥(文字入りVer.)】

【ナメクジ男に犯される人妻・遥(文字入りVer.)】
すでに発表させて頂いております作品でございますが、
この文字入り版は当初のもので、しゃにむにに発表したものでございます。
ブログに載せる際に文字が幼稚で下品な感じがしまして削除しましたが、
改めて視てみますとこの遥の表情に、
こんな化け物に犯される無念さ、亭主を裏切る罪悪感、
しかしそれらを帳消しにして余りある快楽に呑み込まれて感じるエクスタシー、
そんな複雑な絶頂感がこちらの文字入りの方によく出ているようにも感じます。
動きや科白を前提に描いていたのかもしれません。
エロ絵における文字の在り方もこれからの私の課題となりそうでございます。
何にせよ恥ずかしいだの体裁だのを気にして、
本当に表現しなければならないものをないがしろにするなどあるまじきことでございます。
2013-04-04(Thu)

tubuyaki13.04.04.

要するに、私はエロスの味方である。
2013-04-02(Tue)

tubuyaki13.04.02.

エロも芸術も一流のものは自ずと反体制的な匂いをまとっている。
どちらも精神や表現の自由に関わるからだろうか。
エロと芸術は非常に近い存在のような気がしてならない。
プロフィール

歓喜天翁

Author:歓喜天翁
FC2ブログへようこそ!
自作のエロ画春画を中心に、その他エロに関わることを載せていく所存でございます。
貴方様の心の憩いの場になりましたら嬉しゅうございます。
Email address:kanki330-tennou@yahoo.co.jp

アルバム
歓喜天翁平成春画帳
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
FC2カウンター
リンクブログ様
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR