2021-08-22(Sun)
なかなか時間が無くて描けないでおりますが、実のところ性欲のパワーが落ちているのでしょう。
昔は何をどうしても描いてしまったものでございます。
毎回のように心の中で「もう勘弁してくれ」と叫びながら描いておりました。
さて、カンジダ症という病気をご存じでしょうか。
女性に多い症状で、膣などが切れたりただれたりする病気だそうです。
いま何も確認せずうろ覚えで書いておりますので興味のおありの方はちゃんとお調べくださいませ。
二年ほど前でしょうか、ペニスに痛みが走りまして、
見ると皮の部分が横に切れて薄く血がにじむ状態でございました。
それで検索してカンジダ症というものを知ったのでございます。
これに効果のある薬の成分を調べますとインキンたむしの薬がそれでしたので早速塗ってみましたら、
ペニスが火のように熱くなってしかも数日しても効果が無いようでした。
次に普通の軟膏を塗ってみましたら、これは即効果があるのですが塗るのをやめるとまた皮が切れ始めました。
もう一生この状態かと意気消沈、切れては軟膏を塗り、やめてはまた切れを一年ほど繰り返しました。
そんなある日、あらためてカンジダ症のことを調べますとほぼ女性特有の症状で(確か性病ではなかったと思います)、
またよくよく添付されている写真など見ますと私の症状とは違う感じでございます。
どうやら私のはカンジダ症ではないらしい―。
ならば一体何なのか、わからぬまま日が過ぎましたがそんなある日、
ふと手を見るとバリバリに荒れていて一部指の皮が切れて血がにじんでおります。
私のペニスと同じ状態なのです。
時は忌まわしきコロナ禍の初め、しょっちゅう手を消毒していた頃でございます。
消毒や手洗いのせいで手が荒れたのでございます。
もしやと思いその夜から、それまで毎日欠かさなかったペニスの石鹸での洗浄を止めてみましたらたちまち症状が治まりました。
いま現在に至るまでの半年強、一度も皮が切れることがありません。
原因は「石鹸での洗い過ぎ」だったのでございます。
ただ私は、おそらく何十年もペニスを石鹼で洗い続けてきましたのでここにきて切れ始めたというのは年齢のせいもあると思います。
石鹸でゴシゴシ洗うのを止めて症状が治まりましたが、皆様にご報告するには一日二日の様子見ではいけません。
もう症状が治まって半年以上経つのでよろしかろうと思います。
同じ症状にお悩みの方がおられて、なおかつ貴方がペニスを清潔にと石鹸でゴシゴシ洗われているなら一度それを止めてみてくだされませ。
私と同じように完治されることをお祈りいたします。
2021-06-04(Fri)
数人の男たちとルームシェアのような共同生活をしておりまして、
私は自作の春画をファイリングしております。
ある日その共同生活に若い新人が入ってきたので私はそのファイルを得意気に見せます。
新人君はそのファイルを見て私が描いた春画を欲しがります。
私はとても清々しい気分で目が覚めたのでございます。
この夢の表すところは単にこのブログにおける私の願望なのかもしれません。
しかし私自身すこし驚くのは、今までは自分が描いた春画を必死で隠したり、
或いはとうとう発見されて焦ったりする夢ばかり見てきたのであって、
こんな風に自作の春画を乞われたりする夢は初めてだということでございます。
ましてや清々しい気分になるなどとは。
これが何を意味するのか…とうとう春画が描けなくなるのか、或いは逆に更なる高みに達するのか…
私には分かりませぬが、ただ私の何かが変化したのは間違いないと感じることができる夢でありました。
もしこの分析が正しいなら-鬼が出るか蛇が出るか-これからの私の作品がその答えを自ら語るでありましょう。
2021-03-24(Wed)
艶露絵をここに発表し始めた初期にナメクジ男の絵を描きました。
北斎の有名な蛸と海女の春画に触発されて「ぬるぬる」を表現したかったのでございます。
ブログを休止している時、またナメクジ男を描いてみたのが以下の二枚ですが、
初めが下の、女性に上から襲い掛かっているいささか漫画チックな一枚。
ところが描いているうちに初期のナメクジ男の構図にそっくりなのに気付きました。
気を取り直して、もっと写実的に描いてみたのが上の作品でございます。
私は途中でこの二枚を見比べ「うーむ」と腕組をしてしまいました。
自分の中でダメ出しした拙いはずの一枚目の方が、
写実に寄せた二枚目よりエロさにおいて勝っているように見えるのでございます。
私は以前から写実的に描けば描くほどエロが抜けていくと感じておりましたが、
この二つの作品でそれを確信いたしました。
―いやしかし写実的な艶露絵も可能なはず。
そう思っている自分もまた居るのではありますが。
さて、まったくの未完成ではございますがこの二題、
とりあえずここに発表させていただきます。
2021-03-09(Tue)
夢の覚め際に二十歳ぐらいの女の子が何をするでもなくフッと現れて消えました。
目が覚めて、それが私がかつて好きだった娘なのを思い出しました。
しかし名前もいつどこで知り合ったのかも思い出せません。
半日ほどして名前と正体を突然思い出しました。
もう三十年以上も前です、バイト先で一年ほど一緒に働いていた女の子でした。
その娘は当時大学生で、長い黒髪、色白の肌、よく白いハンカチで鼻のあたりの汗をトントンと叩いていました。
そして形のいい大き目のヒップをしており、
自分の魅力を知っているのかいつもピッチリとしたタイトなスカートを穿いておりました。
そうやって若い彼女のお尻を思い出していると、私は年甲斐もなく生々しい性欲に突き上げられ勃起してしまいました。
久しぶりの青い性欲。
そのとき私は自分がずいぶん長い間、エロにおいて大切なものを忘れていたのに気付かされたのでございます。
エロというものはただの性欲だけではなく、
そこに感性や知識や経験や感情や表現したいものが絡んでいるものでございます。
現代はアダルトビデオも信じられないほどのレベルに達し、
私は女優さんやスタッフの方々に尊敬と感謝とシンパシィを抱いておりますが、
それほどの作品の質の高さだからこそ我々はともすれば完全に受け身に堕して、
ただただ白痴のようになってエロの波に漂ってはいないでしょうか。
本当のエロ、強烈な生々しいエロは想像力にあると私は思っております。
どうやら私はその“エロの想像力”を見失いかけていたようです。
三十年以上も忘れていた彼女が夢の中に不意に現れたのは私にそれを気付かせるためだったのではないか、
私にはそう思えて仕方がないのでございます。
2021-01-11(Mon)
皆様お久しぶりです、歓喜天翁でございます。
丸五年のブランクを乗り越えて舞い戻って参りました。
あまりにもブランクが長過ぎて記事のアップの仕方さえ忘れてしまい、一から勉強し直しました。
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以前とは違い、ゆっくりぼちぼち更新していこうと思っております。
艶露(エロ)絵も月に一枚発表出来れば、と思っております。
どうぞ皆さま、よろしければ覗いてやってください。
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ずっとリアルの私は歓喜天翁から逃げようとしてきました。
言ってみれば艶露絵を描き始めた十五の歳から四十年以上でございます。
挙句の果てに、逃げ切ることなど出来ないと悟り、また舞い戻ってきた次第でございます。
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むかし読んだ私の青春の一冊に忘れられない一節があります。
それをこの再開第一回目の記事の締めくくりとさせて頂きましょう。
影と戦ったゲドよろしく私もいつか私自身になることができるでしょうか?
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~(前略)~ ゲドがやってきて言った、「オジオンさま…」
「やあ、来たか」オジオンは言った。
「はい、出て行った時と同じ、愚か者のままで」若者は言った。
『ゲド戦記 -影との戦い- 』(アーシュラ・K・ル-グィン、訳=清水真砂子)
2016-01-03(Sun)
卑猥で下品で猥褻であり続けることを
エロの中に生と死を見出すことを
エロを讃美することを
卑猥から生まれる美を
生きていることの喜びを
性愛の素晴らしさを
自分のやり方で表現することを
新しいエロを追求することを
気も狂わんばかりのエロを追求することを
我が守護神
歓喜天王に誓い奉る
2016-01-02(Sat)
あけましておめでとうございます、
本年も何卒よろしくお願い致します。
さて今も今、実家にて正月番組の明石家電視台を観ております。
家族の前でこっそりこうやって文章をアップするのもなんだか不思議な感じがいたします。
なぜこの状況で日記を書こうと思ったかと言いますと、
この番組にゲスト出演されている釈由美子さんが新婚の旦那様にビールをお酌するというお話しをされ、
それを受けてさんま氏が「釈の生酌」と笑いながら小声で呟かれ隣でアシストしている雨上がり決死隊が困った顔で苦笑しているという場面を見たからでございます。
そのさんま氏の言葉を聞いた途端、
旦那様のペニスをお尺している釈さんを想像し、
次いで後ろから激しく突かれて大声を上げている姿を連想してしまい居ても立ってもいられなくなったのでございます、
居ても勃ってもいられそうになりながらでございますが笑。
どうも正月早々下品なお話しで失礼いたしました。
今年も下品なエロス全開で頑張る所存でございます。
どうぞよろしくお願いします。
2015-11-15(Sun)
ネットで自分の作品を発表するまでは他人様に見せるつもりなどなく描いておりましたから絵に成長というものがございませんでした。
泥の中に潜っていたようなものでございます。
このブログを始めてからが私の艶露絵の成長の開始と言えましょう。
当時は自分でもよく描けたと思えた初期の作品もいま見るとデッサンが狂っていたり稚拙さが目に付いたり致します。
それでも徐々に絵柄や色が変わってきて、自分ながら1年前ぐらいから一応納得がいくような作風になって参りました。
が、まだまだでございます、色々と思うところはございます。
先日アップいたしました『32歳の…』はそんな私の一つの頂点のような気が致しております。
それは「これが終点」という意味ではございません、「これが始まり」という意味でございます。
ここから私はさらに始めたいと思います。
何を極めようとしているのか自分でも分かりませぬ。
それは永遠に手に入らないものかも知れませぬ。
しかし私はそれを追い続けるのでありましょう。
『32歳の…』を思い出していたとき、ふとその構図が蓮の花とダブりました。
蓮は泥の中から美しい花を咲かせるといいます。
私も蓮のように泥の中から美しい艶露絵を咲かせたく存じます。
2015-10-25(Sun)
バイアグラなどはやったことはありませんが私も例に漏れず自分なりに回春法を探求したものでございます。
探求と言いますと大げさでございますが、まあ早い話が飲んだり食べたりすれば速攻で性欲が向上するものを探しておったのでございます。
北斎の春画にはクワイが精力増強の食物として描かれております。
また、スイカにそのような効用があると聞いたことがございます。
ニンニクなどは有名でございますがあまり実感はございませんね。
私の経験ではタコやイカを食べると元気が出るような感じがいたします。
一年ほど前から自宅で腹筋や腕立てなどをして筋トレの真似事をしておりますが、
少しづつ筋肉が付いてきて体調が良くなって参りました。
血やリンパ液の巡りも良くなるのでしょう内部から全的に体が健康になりそうしますと性欲も自ずと向上して参ったのでございます。
実のところ予想外でございました。
毎日のように体の奥からドンと実感できる性欲が湧いて参ります。
目の前を歩いているいやらしいお尻の女性に襲い掛かりたくなる衝動を抑えるのに苦労いたします。
考えてみればバイアグラだのイカだのタコだのと、いずれもその場しのぎの回春でしかございません。
本物を手に入れるにはそれ相応の代償が必要でございます。
日々の鍛錬と努力と時間。
自分自身の本物の精力を手に入れるにはそれしかございません。
そしてそれはその努力を止めてしまえば失われるものなのでございます。
簡単に手に入るものは簡単に失われましょう。
禁欲の中にこそ真の快楽がある―
最近そう実感しております歓喜天翁でございます。
2015-10-23(Fri)
現在『METROPOLIS』という艶露絵を描いております。
からみではない立像でございます。
タイトルのメトロポリスといいますのは1927年に公開されたF・ラング監督の作品のことでございまして、
その作品に出てくるロボット(マリア)にインスパイアされたのでこのタイトルにいたしました。
つまりいま描いているのは人造人間、超高級ダッチワイフというつもりで描いております。
そうして夢中で描いておりますと自分があたかもその美しいロボットを製作するマッド・サイエンストになったような気分になりまして、
そしてハタと気付いたのでございます、今までもこうやってこの世に存在しない美しいロボットを描き続けてきたのだ、と。
私はずっとこの世に実在する人間「女」の美しさを追い求めて描いているつもりでございました。
しかし〈人造人間マリア〉を描いているとき「こんな女はこの世に存在しない」とはっきり認識したのでございます。
そう、私が今まで描いてきた「女」たちは皆この世に存在しない美しきものたちだったのでございます。
それは現実の女性たちを追い求め写し取ったものではなく、
それをよすがに私の中の美とエロスと情念を結晶し作り上げた、この世にない美しい女たちだったのでございます。
私は現実の女を描いているのではない、理想のエロと美を創作しているのだ ―
いつしか私は、美しい人造人間を作るマッド・サイエンストの気持ちで私の〈人造人間マリア〉を描いておりました…
2015-10-17(Sat)
少年期の昔からギリシア・ローマ彫刻の美しさには惹かれておりましたが、
最近その男性像に激しく惹きつけられております。
不思議なものでございます、ギリシア・ローマ彫刻に関して言えば私は女性像よりも断然男性像に美しさを感じるのでございます。
おそらくそれらを作った作者たちも男の体に美を感じながら喜々として創作したのでございましょう。
以前はただ、均整の取れているその完璧なデッサンに基づいた美しさに感動していただけでございましたが、
今は男の肉体の持つ美そのものを感じるようになっております。
初めは自分が感じているギリシア・ローマ彫刻の男性像の美の正体が分からずモヤモヤしていたのでございますが、
それがエロスから来るものだと理解できたのは―唐突に感じられるでしょうが―ブルース・リーの作品を観ていたときでございました。
『燃えよドラゴン』の彼の肉体はまるでサイボーグのようで、1gも無駄な筋肉は無くすべて戦うために用意されたもののように見えます。
『ドラゴンへの道』でボディビルダーのようにポージングして見せる彼の筋肉は美しいというより「すごい」でございます。
彼の肉体を美しいというならそれは「機能美」でございましょう。
ギリシア・ローマ彫刻の男性像とブルース・リーの肉体とを比べたとき、
私はその美の違いを―ギリシア・ローマ彫刻の男性像の美しさはエロスから来る美しさだと、はっきりと確信できたのでございます。
ひるがえって女性の肉体の美しさを考えますと、
これはもうわれわれ男にとってはエロスの要素が圧倒的に大きいわけでございますが、
いやつまり何が言いたいのかと申しますとわれわれが女性の躰を見て興奮し勃起して射精する―
これはつまり「美」に対して勃起し射精しているのではないか―と、
ギリシア・ローマ彫刻の男性像の美しさがエロスだと確信したとき、そう思い至ったのでございます。
私が描かずにいられず少年の頃から罪悪感に苛まれながらも描き続けてきたもの。
それはもしかしたらギリシア・ローマの彫刻家たちが追求していたもの―エロスの美―なのかもしれない。
なぜならエロの捌け口ならいくらでもあるのに「描く」ことは止められなかったからでございます。
エロスの美。
私はこれからもこれを様々な艶露絵で追求していくことになりそうでございます。
2015-08-25(Tue)
お久しぶりでございます、歓喜天翁でございます。
ずいぶん長い間このブログから遠のいておりました。
この間まったくエロい気持ちになれず作品もまったく描く気になれませんでした。
「もう本当に俺は終わってしまったのだ」と絶望しておりましたが、
最近すこし暑さが和らいでくるとさっそく私の中のエロが蘇り描かずにはいられなくなりました。
いま新作を制作中でございます。
相も変わらずの内容でございますが良い感じで進んでおります。
近日アップいたします。
御笑覧頂ければ幸いでございます。
歓喜天翁
2015-05-03(Sun)
描けば描くほど「ちがうちがう」と思ってしまうのでございます。
この二枚の絵(無題1505031、1505032)にしましてもなんと酷い出来でございましょう。
しかし私は絶望はしておりません。
必ずやこの壁を乗り越えてみせる所存でございます。
これはスランプなどではございません、壁、でございます。
ここで負けるわけには参りません。
新しい艶露絵のために、私自身の新しい表現のために。
2015-03-13(Fri)
などとタイトルを付けましたが死にかけていたわけではございません。
お久しぶりでございます、歓喜天翁でございます。
ここ数ヶ月は、何と言いましょうか、エロから何からあらゆるものに興味が沸かず、
とにかく疲れてヤル気がまったく出ない日々を送っておりました。
スランプというより生命力の根源が消失したかのような状態で、
「いよいよ本当に歓喜天翁も終わりかもしれない」と失望の日々でございました。
実は今から考えるとこの頃は酒の量が知らず知らず増えておりまして、
焼酎やウイスキーや場合によっては日本酒を、500mlの缶チューハイで割って飲む毎日でございました。
さすがにこれはヤバイ、と感じまして最近は禁酒しておるのですが、
それが功を奏してきたのか調子が戻ってきたようでございます。
この期間は我が平成春画歓喜天翁ブログさえ覗く気にならず、
それどころか艶露絵にまったく意義が感じられなくなっておりました。
ただそのマイナスの境地からいろいろと分かったことがございました。
とにかく描きたいと思い描くことができることは何にも増して幸福なことでございます。
描きたいという欲求と、そして描くこと―それがすなわち私の生そのものでございます。
艶露絵こそが私の本領を発揮できる表現手段だとようやく分かった気がいたします。
まったく駄目になる前に描きかけて完成に至らなかった下描きが数枚あります。
こんなものは本来発表するものではないのですが、
新作までにまだ時間が掛かりますし、
あまりの御無沙汰のお詫び?も兼ねて―あるいは過去の自分を捨てる気持ちも込めて―、
後日続けてアップさせて頂きます。
これからもこんなことを繰り返しながら描いて行くのでしょうが何卒それに懲りずこれからもよろしくお願い致します。
2015-02-01(Sun)
痛ましい出来事が起こっております。
今もこの瞬間、争い事で人の命が失われていることでございましょう。
私の友人がこんなことを言っておりました、「今まで放送禁止だった戦争や内乱の残虐な写真や動画を世界中のテレビで一週間流せばきっと戦争は無くなる」。
極端な意見でございますがこの言葉には真理が含まれていると感じるのでございます。
そして私は自分の問題として「表現の規制」について連想いたしました。
戦争、人の命に関わる問題に比べて、一体“まんこ”や“ちんこ”を規制することに如何程の価値があるというのでしょう。
レベルが低すぎて涙が出そうでございます。
そう、私が上記の友人の言葉から気付いた真理は「隠すことは悪」ということでございます。
程度問題はありますし「見たくない権利」は守られるべきでございますが、完全に封印すること、規制し過ぎること、そしてその表現を抹殺することは人類にとって必ずや良からぬ結果となりましょう。
表現者がわいせつ罪などに問われて断固として戦うのは、この「隠すことは悪」という真理を直感的に感じているからでございましょう。
ただの“まんこ”“ちんこ”の問題ではございません。
規制される“まんこ”と“ちんこ”の向こうには大きく重要な事柄が横たわっているのでございます。
一朝一夕にはいきませぬ。
しかし多くのことは、長い時間をかけて自由になっているのも事実でございます。
一番重要なのは、我々大衆があらゆる規制や抑圧に屈せず自分の手で自分の「自由」を守ることでございましょう。
私も末席ながら大衆のひとり、何万といるであろう素人艶露絵師の一人としてこれからも「自由」を守る所存でございます。
2015-01-26(Mon)
私は以前から「エロ絵」という文字に少々違和感を感じておりました。
やはり古い人間だからでしょう、どうもこのライトな感じが物足りないのですね。
それで当て字を考えてみました、いえ思った瞬間に文字が浮かんだのでございます。
艶露絵、と。
艶は基本「えん」と読みますが春本のことを艶本(えほん)と言います。
また意味的にも艶姿(あですがた)とか艶事(つやごと)とか「艶」はただのエロより深みがあるように思われるのでございます。
艶を露わにする絵―私は我ながらすっかりこの当て字が気に入ってしまいました。
これからはエロ絵のことを艶露絵と、自分勝手に使っていこうと考えております。
今現在、鉛筆画を描いております。
緊縛画でございますが、一週間前のこと、
半日ぶっ通しで描いておりますと左目の奥が痛くなりまして、
それが広がって首筋まで来て寝違ったような痛みになりました。
それ以来大事を取って筆を置いている始末でございます。
だいぶ良くなってきましたのでこうやってパソコンに向かえるようにもなりました。
今しばらく、新作をお待ちくだされませ。
日本一のわいせつ艶露絵師、歓喜天翁拝。
2015-01-04(Sun)
実家で最後の夜を過ごし、いま目を覚ましたところでございます。
曇っているのでしょうか、
外はまだ暗い様子が漂っております。
昨夜見た夢は一種の淫夢でございました。
私の意中の女性が出てきて、
どうこうするわけでは無かったのですが常にエロスな雰囲気が流れている、という変わった夢でございました。
それが淫夢だった証拠に、目を覚ました私のペニスは久し振りに固く固く怒張していたのでございます。
私は次にそのまま布団の中で、一昨日テレビで見た和服姿の井上真央ちゃんを思い出して、
乱れた和服の裾から出た彼女の白い太ももを撫でまわし、
はだけた胸元からまろび出た大きな乳房とその乳首にむしゃぶりつき、
大事な部分を包んでぷっくりと膨らみを見せる白いパンティーをずらして私の怒張をその大事なおまんこに挿入し、
苦悶の表情で声を上げながら善がる真央ちゃんの姿を妄想しておったのでございます…
エロ絵に真剣に取り組むようになってわかったのでございますが、
この「妄想」というものは他のあらゆる創作表現とまったく同じ作業なのでございます。
また、あらゆる創作表現はーいわゆるアートと呼ばれるものもー、
すべてエロスの力に裏打ちされているに違いないと感じるのです。
エロスの力が減退すると、あらゆることに対する好奇心や欲動や発想、つまり生きる力そのものが失われるということを、今回のスランプで痛いほど学んだのでございます。
これから私は感謝を持って、
自分の作品で性と生を謳歌していく所存でございます。
どうかいつまでも私に性の力を。
淫猥な妄想力を。
美しくいやらしい表現力を。
歓喜天王に願い奉る。
2015-01-02(Fri)
この平成春画ブログを立ち上げてから、
それまで何も考えずにただ漫然と描いていたエロ絵について色々と考えるようになりましたが、
現在はこと自分のことだけではなく社会におけるエロ表現について意識するようにまでなって参りました。
またそれまで何のあてもなく、
ただ抑えられぬ衝動に突き動かされて誰にも見せることもなく描いてきたエロ絵を、
こうやってネットを通じて多くの方々に視ていただくようになったわけですが、
これは収入のことを考えなければ私はすでに夢を実現したのだと最近気が付いたのでございます。
今回帰省してトイレに座り、
あの押しピンの跡を何気なく見つめてそんなことを考え「思えば遠くにきたものだ」と感じ入った次第でございます。
昨年後半はどうもきついスランプに見舞われました。
今年は心機一転、さらなる飛躍を目指して新しいことにもチャレンジ出来ればと考えております。
ますますの御愛顧をお願いいたします。
自由であること、
どこまでも自分自身であること、
それが歓喜天翁のエロ絵の原点でございます。
了
追伸:
いま家族と一緒に明石家さんま氏の番組を眺めながらこれをケータイで打っていたのでございますが、
ゲストで出演している和服姿の井上真央ちゃんの色香に妄想を掻き立てられて困っております。
なんという色っぽさでございましょう、実にけしからん色香でございます。
実家でなければ取るものもとりあえず、
彼女をモデルにして和服の胸元を両手で広げてその胸に爺ぃが顔をうずめている絵を描いていたことでございましょう。
2015-01-02(Fri)
自分で描いたその絵をオナニーのいわゆる「オカズ」にすることもございました。
狭い団地住まい、そうそう思いのままに致すこともできず考えあぐねた10代の私は、
自分が描いたそのエロ絵をトイレに持ち込みー洋式トイレですがー座った目の前にその絵が来るように押しピンで止めて、それを眺めながら致しておったのでございます。
初めは一枚、そのうち二枚三枚と貼り並べてデラックス感を演出しておりました。
自分では隠しおおせたつもりでいましたがおそらく親にはそれとなく気付かれていたのではないかと思います。
帰省してトイレに入り、
今も残る等間隔に一列に並んだ押しピンの跡を見るたびに、
私はエロ絵を描き始め悶々と性に苦しんだあの頃を否が応でも思い出させられるのでございます。
性春の傷跡が何十年もの後々までも自分自身を見つめ返してくることになろうとは思いもしておりませんでした。…
2015-01-02(Fri)
皆様、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
さて、私も世間様並みに帰省しておりまして、いま実家に滞在しております。
私が罪悪感に苛まれながらもこっそりとエロ絵を描き始めたのはこの実家でのことでございました。
初めは小さな落書きなようなものから始まり、最終的には手のひら大程度のメモ用紙に描くようになりました。
いま思い出しましたが当時は男が絡んでいる、つまり二人の人物の組み合わさった構図が難しくて描けず女性一人の絵ばかり描いておりました。
男の姿を頭の中で想像しながら描いていたのでございます。
そしてもう一つ思い出したことがあります。
当時はーエロ絵を描き始めた10代の頃はほとんど肛門性交の絵ばかり描いておりました。
構図的に描きやすかったというより、どうしてもそれが描きたかったのでございます。
もうあまり肛門性交の構図は描かなくなりましたがその性癖は後背位、バック好きに通じているのかもしれませぬ。
肛門にこだわったのは心理学的に言うところの肛門期ーまだ心が幼かったせいではないかと今となってはそう思うのでございます。…
2014-10-22(Wed)
まったく絵を描こうという気になりません。
どうやらまたスランプ、と言うのもおこがましいですがその時期がやって来たようでございます。
プロなら焦るところでございましょうがそこは素人の気楽さ、
こういう時は無理に描いてもロクなものが出来ないのをイヤというほど知っておりますので、
また巨尻と巨乳と創作に欲情するまでじっとしておこうと思っております。
とは言うものの素人とはいえこの状態は非常に苦しいものでございまして、
私の絵を楽しみにして頂いておられる方々への申し訳無さに加え、
女性や創作に燃えるような興味が起こらないその状態自体が非常に苦痛なのでございます。
もしかしたら永遠にこの状態でもう二度と絵が描けないのではないかという恐怖と不安もあります。
こんなとき私はよく釈迦やキリストのことを考えます。
彼らは修行や信仰の妨げになると言って色欲を遠ざけました。
私にはそれがまったく理解できないのでございます。
女性に激しく欲情している時ほど生きている実感があるときはございません。
逆に今の私のようにあらゆる「欲」から遠ざかっているときほど絶望することはございませぬ。
欲情よ、われにもどれ。欲情万歳、欲情こそ生命なり。
切実にそう思うのでございます。
そんな禁欲が嫌いな私が唯一気に入っている宗教が密教でございます。
この、悟りのためなら毒でも皿でも食う勢いの密教の経典に『理趣経』というのがありまして、
その有名な一文を記して本日は終わりとしましょう。
これは『お絹と千吉』の「涅槃図」にも載せさせて頂いた一文であります。
妙適清浄句是菩薩位。
〈なべて快楽は悟りの境地である〉歓喜天翁訳
2014-09-20(Sat)
何度か書きましたが私は春画を思春期の十代から描き続けて参りました。
それ以来何十年、私はこれを忌まわしい悪癖と思い込み、
描いては止めようと思い止めようと思ってはまた描き、を続けてきたのでございます。
どこにも救いがない罪悪感と背徳感を感じながら春画を描いておりました。
ご理解頂けるでしょうか、心の底から忌まわしく思いそこから逃れたいと思うものに手を染めてしまう苦しみを。
処分し忘れた自作の春画を誰かに見つかりそうになる、という悪夢をよく見たものでございます。
私にとって自分の描くエロ絵は「絵」ではなくただの悪癖、としか認めておりませんでした。
ところが現在は否定しようのない自分自身の表現として春画を認めてきていることに気付いたのでございます。
それは皆様に喜んで頂ける作品を描こうという思いで春画を描いている自分に気付いたからでございます。
罪悪感と背徳感に苛まれながら誰かに見せるどころか必死に隠しながら、
自分自身の自己満足のためだけに描いていてはそんな思いは絶対に生まれるわけがなかったのでございます。
私が自分自身から救われるためには「表現」しなければならなかったのがいまやっとわかった気がいたします。
そして自分自身が救われるためには自分の力だけでは不可能なことも。
恐らく人間はそういう仕組みに出来ているのでございましょう。
私を救ってくださったのは私の「絵」を愛でてくださった皆様でございます。
これからも自分のためだけではなく、まず第一番に私の春画を楽しみにしてくださる皆様のために筆を執る所存でございます。
あれほど忌み嫌って何十年ものあいだ捨てようとしてきた自分の「悪癖」―春画―を、
いまでは「絶対に失いたくない」と考えている私でございます。
2014-09-14(Sun)
春画を描いている最中の私は猛烈な興奮状態にあります。
それは春画を描いている時にだけ訪れる興奮でございます。
それをずっと私は男性性の興奮だと疑う余地もなく思っておりましたが、
最近それはもしかしたら違うかもしれないと感じるようになって参りました。
例えば犯している男と犯されている女がモチーフの作品を描いていてもよく考えてみれば、
すべて私の空想で描いているわけですから犯されている女性も決して完全な客体ではありえません。
それを発見したのはある時、今までは100%男の立場で相手である女性を犯しているという感覚だったのが、
私自身が作中の犯されている女性になりきって女性のエクスタシーを感じているのに気付いた時でありました。
考えてみればそれは当たり前のことかもしれません。
作中の女性に感情移入出来なければエクスタシーに酔う女性など描けるわけがないのでございます。
また、女性の単体の作品にしても、女性の猥褻な躰を視たいという男の私の感情とともに、
「あたしの躰を見て!」という私の中の女が居る気がするのでございます。
理屈ではなく最近は、春画を描いていても「犯されている自分」を感じるのでございます。
私は至ってノーマルな性癖の持ち主の平凡な人間でございますが、
こと春画に関してはこの「自分の中の女」を強く意識した方が良いようでございます。
自分の中の男と女―陰と陽―を私は描いているのかもしれません。
2014-09-05(Fri)
自分の作品を本にしたり印刷して額装するのが一つの夢でございます。
それで、同人誌のサイトなどを時々のぞいたりするのですが、
とても私の夢は叶いそうもありません。
その理由は「規制」でございます。
去年2013年7月にコアマガジンの編集者が逮捕されてから特に、
同人誌(と印刷業界)の自主規制が強くなっております。
もちろん表向きは「法律遵守」「青少年育成のため」でございますが、
たとえば同人専門の印刷会社さん発信の自主規制に関する文章を読んでおりますと、
「挙げられたくない」という、お上に対する恐怖心がバンバン伝わって参ります。
実のところ私も迷っております。
現在のところこのブログにはノーカットでアップしておりますがこの先どうするか分かりません。
性器にモザイク等を入れるかもしれません。
むかし、規制を受けた作家が筆を折る、つまり作家活動をやめる事件があって、
私は「違う手段で規制を逆手に取りながら書いてこそ作家」と思いましたが、
そういう話ではないことがようやく分かった気がいたします。
私にとって「絵」は完全な「自由」の世界なのでございます。
これは、何をやってもいいとかいう意味ではなく、純粋に精神的な意味でございます。
「絵」こそ私自身でありまして、そこに一片の偽りも介入させるわけには参りません。
ですから“規制を逆手に取って描く”ような芸当は「絵」と自分に距離がある者にしかできないことでございます。
自分に嘘をついて描くことなど出来ません。
上記の作家氏も同じ思いだったのだろうと今になって思うのでございます。
私は自由に描くことをやめられない、しかし挙げられずに作品を発表したい。
ですから不本意ですが、ギリギリの選択で性器部分のカットをするかも知れませぬ。
大きな声では言えませぬが、念のため今のうちに「これは」と思われる作品はDLしておいてくださいませ。
さて、あるいは同人誌でノーカット作品を発表できるならこんなに悩みませぬ。
先に書きましたように紙媒体のほうが尚さら規制が強いありさまでございます。
つまり私には自分の完全な作品の発表の場が無い、といえるのです。
そのままの作品を発表したい―
情けないことに今やこれが夢となりつつあります。
そんなことを考えておりましたらハッと気付きました。
エロ規制で我々は戦々恐々としているわけでございますが、
これは結局のところ「お上には逆らうな」という空気ではないでしょうか。
今回の内閣改造でなおさらいろいろな規制が強くなる気もいたします。
同人誌、出版社、エロ作家がどしどし家宅捜索を受け盛大に逮捕されればされるほど、
エロなど全く関係のない世間一般の人々も「とにかくお上には逆らうな」と思うのではないでしょうか。
“こちら側”に身を置けばそれがよく分かるのでございます。
そして私は夢見るのでございます。
規制を逆手に取るのでもない、
自分に嘘をついて描くのでもない、
自分の思うまま性器もエロも自由に描いて尚且つ権力も法も手出しができなくなるほどの作品。
芸術とかアートなどではありませぬ、言ってみれば「崇高なるエロ作品」。
それがどんなものか自分にも解りませぬ。
ただ、
権力さえ黙らせるほどエロが極限まで極まって自ずと崇高さを発しているような作品が描けたら…。
と、最近の私はそんな見果てぬ夢を夢見ているのでございます。
2014-09-02(Tue)
9月1日、『ビートたけしのTVタックル』で「ロリコン・暴力 アニメに規制は必要か? 徹底討論」をテーマに激論が交わされたそうでございます。
私は観ておりませんので深く語ることは出来ませんが、この番組内での江川達也氏の発言を取り上げた記事を目にしまして、
「その通り!」とあまりにも感銘いたしましたので取り上げさせていただく次第でございます。
江川氏はこう仰ったそうでございます。
**************
「悪いことを正当化させてしまう認知のゆがみがあり、良いアニメと悪いアニメがあるのだが、むしろエロをエロとして描いているものは良い」
「プロの目から見るとわかるんですよ。エロとバイオレンスが巧妙に隠されている」
「痛みを感じる暴力描写や、性欲を抱かせるロリコン・萌え描写はかえって健全。それよりも真に有害なのは宮崎アニメ。ロリコンを隠して健全な映像に仕上げているから、欲望が正当化されてしまう」
《「悪いのは宮崎アニメですよ!」 アニメ規制がテーマの『TVタックル』にて江川達也先生が持論を展開http://getnews.jp/archives/658147》
**************
私はこの番組を観ておりませんので江川氏がこの発言をどんな文脈で語られたのか分かりません。
ですので番組内容は別にしてこの記事に書かれたこの発言文のみを対象に感想を述べさせていただきますが、
まさしくその通りだと私も思います。
目からうろこの落ちる思いがしたのは「むしろエロをエロとして描いているものは良い」という一文でございます。
なぜ今までこれに気づかなかったのかと自分の愚鈍さを呪ったほどでございます。
エロをエロとして描いている作品なら、それを鑑賞する者はそれがエロだと認識するわけですし、
嫌なら見ない、見たければ見る。
最悪ショックを受けたとしても「あのエロ表現にこれぐらいのショックを受けた」と自分で理解する。
その後の自分の行動も選択判断理解ができる。
しかし「巧妙に隠されている」エロ(や暴力)作品を観た場合、それをエロ(や暴力)と理解できぬまま「欲望が正当化されてしまう」可能性がある。
たとえば私などは、あの分厚い服の上からでもそれと分かるナウシカの巨乳ぶりはいち早く見抜きましたが、
まだまだ見抜けずに巧妙に刷り込まれているエロや暴力があるかもしれませぬ。
それはさておき、この江川発言で私が一番得たものは自分の表現に対する自信でございます。
少なくとも私はエロをエロとして全開で表現しております。
―それは創作としてまったく正しく健全なこと。
私はまた一つエロの壁を乗り越えられたようでございます。
2014-08-31(Sun)
現実での私は自分で言うのも何でございますが、かなりな真面目人間でございます。
真面目というより品行方正で人当たりがよく大抵の方々に好かれます。
会社にも遅刻しませんし、自己管理を怠って欠勤したこともありません。
春画をネットに発表し始めてからはそれがますます実感されるようになった気がいたします。
つまり自分の中の陰と陽がますますはっきりと分離された気がするのでございます。
夜は春画を描いて世間様に発表している私“歓喜天翁”。
昼は真面目で温厚で人に好かれている私“リアミー(realのme、いま作った造語でございます笑)”。
私は自分の“陰”の部分を春画に注ぎ込んでいるのかも知れません。
昼間、「俺は歓喜天翁なのだ」とリアミーの私が意識すればするほど、
ますます安心して品行方正になれる気がするのでございます。
これが精神の均衡というのでしょう、なんとも言えない安定感を感じるのでございます。
もし春画を描くすべがなく「現実」だけに生きていたら、
リアミーの私の中に“陰”が容赦なく混ざってきて乱暴で反社会的な酷い人間になっていたような気がいたします。
もしかしたら本物の犯罪者になっていたかも知れませぬ。
「自分の中の負の部分を作品に昇華させた」などと文学作品などに対して言われているのを目にしても意味がよく分かりませんでしたが、
恐らく私にとっては春画のことなのでございましょう。
私は自分の中の負の部分、陰の花ともいうべきものを泥の中に咲かせることが出来たことを幸運に思います。
その場を与えてくれた「ネット」というものに感謝しております。
そしてなによりも、そんな私の作品を愛でてくださる今これを御覧の皆様に感謝いたします。
2014-08-20(Wed)
残暑の暑い日々が続きます。
皆様に置かれましては体調崩さずお元気にお過ごしでしょうか。
こう暑いと私のような年寄りは性欲も減退し、
女性のあらゆる魅力も味わいにくくなって参ります。
こんな人生は生きる価値も半減でございます。
そんなショボンとした気持ちで先ほど何気なく、
手にしていたスマホでこの自分のブログを開きましてさらに何気なく、
左のバーにある「アルバム」の作品のサムネイル画像をタップいたしました。
そうしますとその作品が画面に現れます。
左右に矢印がありまして画像を次々と閲覧することができます。
そうやって自分の作品を順に眺めておりました。
するとどうでしょう、
10作品ほども視たところで私の奥底からムラムラと獰猛な性欲が頭をもたげて参りまして、
我が愚息がビンビンに勃起してしまいました。
三人娘の大きな乳房、年頃のむちむちの身体、大きなお尻。
お気に入りの着衣エロ、絵の中に入って行って身体中を舐めまわしたい2人の美樹。
誘うように腰をくねり尻を振るビッチギャル。
怪人に犯されながら快感に絶叫する人妻。
激しく後ろから犯される主婦、女将、舞妓、女子高生、女子大生、OLたち…
手前味噌ですがなかなかよく描けております。
皆様に置かれましても、我が作品がこの暑い夏を乗り切るための一助となることができましたら嬉しゅうございます。
2014-08-17(Sun)
本日まで実家へ帰省しておりました。
私と同じように明日から仕事だという方も多いことと存じます。
この時期は終戦記念日もありヒロシマ・ナガサキ・オキナワのこともあり、
そしていま現在進行形で世界で悲惨な戦争や事件事故災害があり、
いやが上にも己が幸せを実感しないではいられません。
なんだかんだと言っても日本は(まだ)平和でございます。
私は、もし日本が戦争状態なら、いやそこまででなくともかなり不穏な状態なら、
とよく想像いたします。
日本がそのような状態ならとてもエロ絵など描けるものではない、と思うのでございます。
エロ絵がわいせつ物として規制や取り締まりの対象になることに私は抵抗いたしますが、
そんなもの戦時下の状況に比べたら子供の遊びのようなものでございましょう。
平和故にそんなことも出来るのでございます。
私はなにもエロ絵を描くことを卑下して言っているのではございません。
むしろその逆でございます。
エロ絵を描いたり鑑賞したりできる社会は平和でございます。
平和―これほど貴いものはございません。
そう、エロ絵は平和の象徴であり証なのでございます。
エロ絵絵師である私はこの国の平和を具現しているとさえ思っております。
私は平和の絵師、と自負さえしております。
―ですからどうか私にエロ絵を描き続けさせてください。
私は最近、心の中でこの日本に対して本気でそう願うようになりました。
エロ絵を描きたくても描けなくなる、そんな国にだけはなりませんように、と。
国の平和のためにもエロ表現は死守しなければなりますまい。
2014-06-24(Tue)
今日のことでございます。
若いお母さんがまだ1歳ぐらいの子供さんを乳母車に乗せて歩いておりました。
夏になりますと女性も軽装になり肌の露出度が高くなって参ります。
そのお母さんは胸の谷間も露わなノースリーブの服を着ておられました。
美しい方でスタイルもかなりいいお母さんでございましたが、
なんということでしょう、私はその胸の谷間に何も感じなかったのでございます。
小さなお子さんを連れておられたので完全に母親のオーラが出ていたせいでしょうか。
はたまた私の体調が思わしくなかったのか。
いえ、原因はどうでもいいのです。
私はその時、あるものが「わいせつ」であるかどうかはそれを視るものが劣情をもよおすかどうかに掛かることを強く感じたのでございます。
そして、もしそのときそのお母さんを視たのが私ではなく道徳的な立派な紳士だったなら、
彼はその胸の谷間が露わなお母さんの格好を「けしからん!」と思ったのではないでしょうか。
私はその時まったくけしからん気がしなかったのでございます。
つまり本当にけしからんのは、そのお母さんの胸の谷間によってもよおされた立派な紳士の劣情なのではないでしょうか。
問題なのは往々にして、そんな「けしからん」格好をしているそのお母さん自身がけしからんと思われがちだということでございます。
本当にけしからんのは彼女を「けしからん」と言っている紳士の劣情なのに、でございます。
しかし法的社会的には劣情をもよおさせたお母さんの負けで、紳士の方が正しいのでございます…
けしからんサイトにはよく「けしからん画像」とか「けしからん格好をしたJK」とかいう表現をよく目にいたしますが、
これは、けしからんのは自分の劣情だということがよくわかっているとても秀逸な表現で、私は大好きでございます。
けしからんの本質はけしからんと言う者の劣情にあり。
もしも私の作品が立派な紳士淑女から「けしからん!」とお叱りを受けたなら、私は「してやったり!」と思うことでございましょう。
2014-04-11(Fri)
私はどうも自分の作品についてあれこれ語ってしまう癖がございます。
絵描きとしては愚の骨頂だと思っているのでございますが、
まだエロ絵に対して試行錯誤しているからなのかも知れませぬ。
『誘惑する巨乳人妻』という絵は自分の中のドロドロしたエロに関する感性をあえてストレートに表現してみた作品でございます。
それは特に書き文字に表れていると言えましょう。
絵にもそれは出ておりまして、改めてこの“巨乳人妻”の表情を視ておりますと、
私が好んで描く男好きするようなポッチャリとした美人とは余程かけ離れた禍々しい顔をしております。
私はこれを「便所の落書きのように」と意識して描いておりました。
エロ絵の原点は「便所の落書き」にあると私は考えております。
描く者はそれを「作品」などとは思っていない。
いつかは消される完全な落書きでございますが彼は止むに止まれぬ衝動で描いてしまう。
こっそりと用意してきた鉛筆で。その震える手で。
描き終わったすぐにでも誰かが人として恥ずべきこの絵を視る。
彼は、この自分の恥部を他人に視られたら自分は取り返しのつかない罪人になってしまう気がしているのに描いてしまうのでございます。
そこに描かれた絵は性の欲動のみが充満し芸術性など微塵もございません。
見るに耐えないような汚らしい絵でございますが不思議と視る者を惹きつける力を持っているものでございます。
私は『誘惑する巨乳人妻』の特に書き文字を書いている時、ことさら羞恥心を感じまた自分の正気を疑っておりました。
こういう時は、描いている私の狂気をもう一人の私が他人のように客観視して感じ取っているのでございます。
描き終わって我に返り作品を眺めると、
わずかに歪んで傾いている文字や彼女、禍々しい表情、欲動の赴くまま唐突に描き加えられた精子、そして全体を覆う暗いトーン。
それらを視たとき私は気付いたのでございます、便所の落書きのように欲動に身を任せて描くとどうなるかを。
それは感覚的なものなので文字で表現するのは難しいのでございますがあえて言うなら作品に対するストイックさ、でございます。
失笑を承知で言うなら作品に対する愛でございます。
いい作品に仕上げよう、少しでも視る人を感動させるものにしよう、という創作に対するストイックさがないと、
エロスの欲動に喰い物にされて無残な姿を晒すことになるのでございます。
しかしながらそれがエロ絵の根源的なパワーでもあるです。
そこから離れてエロ絵はあり得ません。
凶暴なエロスという獣の背中に乗って、作品に対する愛を持ちながら完成までの道のりを制御しながら旅する―
綺麗事ですが例えて言うならこういう事でしょうか。
本来なら没にするところなのかも知れませぬが、反面教師として肝に銘じるため「完成作」としてアップした次第でございます。