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2014-03-31(Mon)

日記~【餃子】

先日、生まれて初めて自分で餃子を作ってみたのでございますが、
スーパーで売っているチルド餃子とは違って、
まるでお店の餃子そっくりの風合いに仕上がり感動いたしました。
さて、その際レシピを調べているうちに餃子の意味も目につきまして、
中国ではおめでたい特別な意味を持つ食べ物だということを知りました。
餃子という字は「食」「交」「子」。
なるほどでございますね、今までそこに気付きませんでした。
これを知った時、私は当然のごとく「交」を交合と理解したのですが、
調べてみますと必ずしもそうではないようでございます。
また餃子の形は中国の昔のお金の形をモチーフにしているとも…
私はその時、餃子の形を改めて思い起こしてハッとしたのでございます。

―果してそうだろうか、餃子のモチーフはお金の形だろうか。
餃子を縦にしてあの皮を閉じたヒダヒダの部分を眺めればまさしく女性器そのもの。
中に具(いみじくもある地域では女性器のことを具と表現いたします)を包み込んで膨らんだ様は、
子供を孕んでいるようでもあり或いはぷっくりとした恥丘のようにも見える。
水餃子であれば全体が温かく濡れてプルプルとし、その様は興奮した女性器を連想させる。
食した時に中から溢れ出る肉汁は極上の愛液。―

どうでございましょう、私は餃子のモチーフは女性器としか思えないのでございます。
もしそうだとしたら餃子を考えた人物は造形の天才に違いありません。
また、こんなに形状から触感まであからさまにそっくりなのに容易に連想が及ばない。
同時にわいせつ物陳列の天才でもあります。
これから私は餃子を食べる度にその形をまじまじと見入ることでございましょう。
セクシャルな気分でそれを食べることでございましょう。

私もこんな優れた猥褻作品をいつかものにしたいものでございます。
2014-03-19(Wed)

日記〜【歓喜天翁宣言】

私は思春期からエロ絵をこっそりと描き始め、
それを忌まわしい悪癖と思い何度もやめようとして参りました。
自分のアートは正常な正当絵画であって、
エロ絵は自分にとってアートではなくただの汚らしい悪癖だと思っていたのでございます。

しかしながら私は「アート」と言われるもののほとんどに偽善を感じておりました。
「本質」から距離を取って描いているように見えたのでございます。
まるでストレートに本質を描くことは下品で、
本質に何枚も布をかぶせて表現することがアートだと言っているように私には感じられたのでございました。

エロスこそは本質でございます。

思春期からエロ絵を描き始めると同時にそれをずっと否定してばかりで、
それこそが私の苦しみであり不幸でございました。
長いあいだ間違っておりました。
エロスこそが私の能力を最大限に生かせる本来の土壌だったのでございます。
私はエロスそのものに美を求めます。
それこそが美の本質、私の美でございます。


私は歓喜天翁。
エロスこそ我が真実のアート。


ここに改めて宣言する次第でございます。
2014-03-01(Sat)

日記~【閑話休題】

前回の日記に書きましたイザナキイザナミの国生みの下描きは良い具合に仕上がったのでございますが、
またぞろ浮気心が出まして『授乳する事後の巨乳妻』という絵を描いております。
24時間描いていられれば一作一作仕上げられる気も致しますが、
次々と湧き上がる婬想に勝てず…どうも悪い癖でございます。
どちらが先に仕上がるかわかりませぬがどうかお待ちください。
描き方も今までとは少し変わってきていると実感しております。
いつもご愛顧くださる皆様へご報告まで。
2014-02-20(Thu)

日記~【伊耶那岐命と伊耶那美命】

現在描いている春画は『古事記』に描かれる伊耶那岐(イザナキ)と伊邪那美(イザナミ)をモチーフにしております。
古事記は日本誕生の神話をその冒頭に描いていますが、
伊耶那岐と伊耶那美が交わってまず淡路島を、次に四国を、という具合に日本の国土を産んで行きます。
つまり、男女の神のセックスによって日本は誕生したのでございます。
交わる前に伊耶那美が「私の体には出来きらない一ト所があります」と言い、
伊耶那岐が「私の体には出来過ぎている一ト所がある。これをお前の出来きらない所に刺しふさいで国をつくろう」と言いまして、
二人はまぐわうのでございます。
古事記が成ったのは西暦でいうと712年とのこと。
おそらく日本最初のエロ描写ではないでしょうか。
いやしかし、俄然この描写がエロさを増すのはこの二人が兄妹だという事実でございます。
兄と妹。
なんという背徳感、そしてその禁断の情交によって日本は産まれたのでございます。
各国の神話ではこういった近親による交わりによって世界が始まるというモチーフは多いそうで、
そう言われれば一国を作る作業をするのに当たり前な普通の段取りでされたのでは釣り合わない気もいたしますね。
タブーを犯してこそのこの大事業、という気がいたします。
なんにせよ、この国の創世をエロ視点で描くというテーマですので今回の作品はじっくり仕上げたいと思います。
時間が掛かると思いますがどうか暖かく見守ってやってくださりませ。
2014-02-14(Fri)

日記~【春画、脳内セックス、瞑想、その向こうにあるもの】

作品を描いているときはまるで桃源郷を彷徨っているような気分でございます。
女性の躰のラインや肌の質感、凹凸やヒップやバストのヴォリュームを手で撫でるように。
また一物を挿入している絵ならば自分が激しく攻めているかのごとく。
そして絵の中の女性が昇天しているそのエクスタシーに同化するのでございます。
私は春画を描いていてよく思います、自分は絵の中でセックスをしているのではないかと。
もちろん現実のセックスとは全然違う質のものでございますが、
春画を描いていて感じるエクスタシーは現実のセックスより直接エロスにアクセスしているのではないかと思うのです。
現実のセックスは身体的な五感と精神的な夾雑物を通してエロスにアクセスしますが、
春画を描いておりますとストレートにエロスに触れている気がするのでございます。
完全に自分の想像力だけの純粋な精神作用なので宗教の瞑想に近いのかも知れませぬ。
これはまったくの妄想ですが、ここにエロスと宗教の共通項があるのではないかと感じるのです。
その向こう側に何があるのかは分かりません。
ただ私は、私の絵を視てくださる方々がほんの少しでも桃源郷を感じてくださるよう描くのみでございます。
2014-01-04(Sat)

日記~【車中にて】

いま電車の中でございます。
以前から思っていたのですが比較的新しい車両の中には、
連結部分でしょうか、まるで女性の悶声のような「あぁ、あぁん、ああぁぁぁン」という音を発するものがございますね。
私は今まさしく車中でその音に悩まされているところでございます。
これこそ公衆に対して強制的に羞恥心を与えるわいせつ物陳列といえましょう。
この音自体に私は一切文句はございません、発生すること自体に何ら異議はない。
が、この音をこのように無差別的強制的に垂れ流さないようにしていただきたいと思うのでございます。
これはエロ創作物に対する私の基本的な意見でもあります。

年頭から馬鹿な話で始まりましたが今年もこの調子で邁進いたします。
新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
2013-11-23(Sat)

日記~【陰と陽】

大抵の方は『スター・ウオーズ』をご覧になっていると思いますが、
私は最近あの“ダークサイド”というものが気になっております。
共和国軍&ジェダイが「陽」の存在なら帝国軍&シスは「陰」と言えましょう。
映画ではシスは徹頭徹尾“悪の存在”として描かれておりますが果して本当にそうでしょうか。
彼らは“フォース”の暗黒面、「陰」の力の真理を発見し魅了されたのではないか、
そう思った途端、私にはこの物語が少し違う風に感じられたのです。
と言いますのも、この私もエロ絵という絵画の暗黒面、「陰」の世界に魅入られ自ら身を投じているからでございます。
私自身、何十年ものあいだ、エロ絵を描いてしまう自分を嫌悪し忌み嫌い、
そしてとうとう膝を折るようにその前にひれ伏しエロ絵師となりました。
ダース・ベイダーとなったアナキンのように。
“ダーク・サイド”の人間になってしまうとその世界がより深く見えてくる。
私はいま、あのシス卿のような気分なのです。
我々は悪ではなく「陰」なる存在と言えましょう。
明るい表舞台には決して出れませんが「陽」を補完する存在だと。
私はこの“ダーク・サイド”で美しい花を咲かせたいと思うのでございます。

日記~【陰と陽】
2013-10-22(Tue)

日記~【夢一夜】

こんな夢を見ました。

***********
そこは普通の町中なのでしょうがだだっ広い更地で、
天気が悪いせいか荒涼とした感じが漂っております。
私は砂浜のような自分の土地(普通の感覚の私有地とは少し違う、領域といった感じです)
に昔話の魔法使いが持っているような木の杖で、
次の作品の下描きを描いては消し描いては消ししながら歩きまわっております。
そうすると近隣の土地から見知らぬしかし知っている人たち数人が声を掛けて近寄って来て下さいました。
「歓喜さん、次の作品ですか」
「調子はどうですか」
「楽しみにしてますよ」
実のところもうすでに幾らかの作品の準備はあるので余裕な気持ちで皆さんと歓談しました。
そうしているうち空に不思議な雲がモクモクと立ち現れてきたので、
私を含めそこに居るみんながその雲を手持ちのケータイやスマホやデジカメで撮影するのでした。
************

自分が歓喜天翁として登場した初めての(記憶では)夢でございます。
また、ネットの世界が舞台なのも初めてでございます。
不思議な雰囲気のある夢でございました。
2013-10-11(Fri)

日記~【美術館でアートとして鑑賞される春画】


《開催に苦労する「春画」展覧会 「アート」と「ポルノ」の境界線はどこにある?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130619-00000485-bengocom-soci》

現在、大英博物館で「春画―日本美術における性とたのしみ」と題して大規模な江戸時代の春画展が開催されております。
上に引用させて頂いた記事の中でインタヴューに答えて弁護士さんがこう仰っておられる。

「浮世絵の『わいせつ性』の判断に際しては、東京地方裁判所平成16年1月13日判決が参考となります。
この裁判は成人向け漫画のわいせつ性が争われた裁判ですが、判決の傍論で
『浮世絵ないし江戸時代や明治時代の春画は、それぞれに、著名な浮世絵作家の作品として、あるいは懐古趣味に応える歴史的文物として、
興味を抱かせるものであり……専ら読者の好色的興味に訴えるものとはいえない』としています。
今回のように著名な浮世絵作家の作品で、大英博物館に展示され、芸術的価値が高いとの評価を得ている春画であれば、
『専ら読者の好色的興味に訴えるもの』とは言えないでしょう。
つまり、裁判所が刑法上のわいせつ図画と判断する可能性は、『まずない』と考えて良いでしょう」

私はこの大英博物館の春画展を知った時「浮世絵春画は終わったのだ」と思いました。
江戸時代の人々は春画をポルノとして楽しんだはずでございます。
つまり浮世絵春画は「エロ絵」だったはずなのです。
エロ絵というものはおのずから革命性を持っております。
エロというタブーに触れるからでございます。
ですからエロ絵というものは個人がこっそりとドキドキしながら視るのが一番正しい姿なのでございます。
それが世界でも有数の博物館で白日の下に晒されて大勢の人々が同時にフムフムと「鑑賞」する―
そんなもののどこがエロ絵でございましょうか。
江戸浮世絵春画はいまやその役目を終え活力を失い「アート」という体制に取り込まれたようでございます。
決して体制に取り込まれないもの、それが本当のエロ絵の在り方なのでございます。

上記の記事を読んで改めて思いました、
私が追い求めているもの、追求しているもの、表現しているもの、それこそが「わいせつ性」なのだと。
この革命的で宗教的で芸術的な得体のしれない「猥褻」というものをこれからも一心不乱に表現していく所存でございます。
2013-09-29(Sun)

日記~【気持ちいいのはいいことです】


回春マッサージ盗撮 其の四 [DVD]回春マッサージ盗撮 其の四 [DVD]
(2009/03/20)
不明

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ご多分に漏れず私もAV、もっともほとんどがDVDですが持っておりまして、
若い頃はとにかく次々と新しいものを視ていたものでございます。
同じものを二度三度視ることはほとんどありませんでしたが、
歳を取ったせいでしょうか最近はお気に入りのものを繰り返し視ることが多くなりました。
その内の一つに「盗撮・回春マッサージ 其の四」という作品がございます。
レンタルしてダビングしたものなのでパッケージも無く、
出演されている三人の女優さん達の名前もわかりません。
最近また視ておりまして三人目の女優さんがふと口にするセリフにハッとしたのでございます。

回春マッサージを受けるお客は一物を隠すためのタオルを一枚、股間にかぶせております。
仰向けに寝た客。
マッサージをする女優さんはタオルの中に手を入れて一物近くのリンパ腺あたりをマッサージしております。
が、もう充分に勃起しているそのペニスについ手が触れてしまいます。
「あ、すごい」と言いながらペニスをしごき出す女優さん。
たまらず“気持ちいい”と呻く客。
ペニスに夢中になりながらもその言葉に女優さんはこう言います、
「気持ちいいのはいいことです」。

これほどストレートであけすけで迷いがない言葉があるでしょうか。
快楽快感の向こうに何かがあるのではないかとか、
快楽に耽るのは罪悪なのかとか、
ぐちゃぐちゃと考えたりする自分が恥ずかしくなる言葉でございます。
―気持ちいいのはいいこと。
エロスにおいてこれ以上の意味はありますまい。
この言葉は私のエロにおける座右の銘でございます。
2013-09-27(Fri)

日記~【カサノヴァとエロ絵】

勤務先に何人かのアルバイトの女性がおります。
そのうちの二十代半ばのある女性が髪型を変えました。
以前は長めの髪をひっつめて頭の上でまとめていたのを、
いきなり短くしてパーマを軽く当てて参りました。
それまではどちらかといいますと野暮ったい印象で気にも止めておりませんでしたが、
急に別人のように見えて抱きたくなってしまったのでございます。

よくよく見れば美人にも見える。
首筋に舌を這わしたらどんな声を出すだろう、
乳首は小ぶりだろうか。
純な感じだから処女かも知れない、
いや案外オトコを知っているかも。
ああ後ろから犯してみたい、
四つん這いではなく立位で。
机に手を付かせて尻を突き出させて、
ぐちゅぐちゅの熱いおまんこに私の勃起を突き立てたい。
尻の形が変わるほどに激しくしたら、
彼女は頭を振りながら歓喜の声を上げるだろうか…

気が付いたらズボンの中でまた固くしていたのでございます。

私などは度胸が無いものですからこういう欲望を抱くと大概は絵にしてしまいますが、
カサノヴァのようなタイプの人物は現実に次々と女性をものにしていくのでございましょう。
そこで思ったのでございます、
次々と女性と関係を持つ人はそれが創作行為になっているのではなかろうか、と。
逆に言うとエロ絵を描く行為はカサノヴァの女性遍歴と共通するものが…
なんだか嘲笑が聞こえて来そうですね、この辺りでやめておきましょう(笑)
2013-07-19(Fri)

日記~【暑中お見舞い申し上げます】

暑い日が続きますが皆様いかがお過ごしでしょうか。
私はまだ調子が戻って来ていませんが毎日エロ絵のことを考えております。
この三ヶ月ほど大きな壁にぶち当たっているわけでございますが、
性欲というより生命力そのものの低下を感じております。
その作風に関係なく多くの芸術家たちが性欲減退やインポテンツを恐れた理由を体感した気がいたします。
性欲が減退するということはあらゆる創作力が低下するということを思い知りました。
また、女性に欲情すること、その感覚、そしてペニスの勃起は男にとって生きていることの証であることも実感いたしました。
この感慨は放っておいても毎日勃起している若い方には解りますまい。
いま私は「性欲こそが生命力」とさえ考えております。
生命を讃え命を謳歌するためにもよりいやらしいエロ絵を描かねばなりますまい。

現在も以前のように閲覧数があり、御礼申し上げます。
ずっと何も発表しないのはあまりに申し訳なく思いますので、
挫折した鉛筆画ではございますが2,3アップさせて頂こうと思っております。
いずれもこの期間に描いたものですが御笑覧下さい。
また、いずれは全ての作品をサムネイルサイズで一覧できるような様式の
ブログかホームページに作り変えたいとも夢想し始めました。
できるかどうか全くの未定でございますが。


2013-06-02(Sun)

日記~【ありのままのエロ心で】

一ヶ月前のゴールデンウィークに偶然、一枚の藤田嗣治の素描を観ました。
その時大きな感動を受けたわけではなかったのでございますが、
あとからじわじわと「いい絵だったなあ」と感じ入りました。
それから絵が描けなくなったのでございます。
どころかエロ絵にまったく意義が見い出せなくなったのでございます。

この大きなスランプは私に「エロ心はエロ心のままに」と気付かせてくれました。
今まで結局のところ私は「エロ」というものをどこかで高尚なものに近づけよう、
そして自分のエロ絵に言い訳しようとしていたのでございます。
女性をいやらしく感じること。
女性を切ないほど助平な気持ちで感じること。
このエロな気持ちそれ自体が何よりも素晴らしいことだと気付いたのでございます。
なぜエロ絵を描くのか―それは助平心がそうさせるから。
逃げも隠れもいたしません、私はただただ助平ないやらしい気持ちでエロ絵を描くのでございます。
そしてそれは最高に至福なことなのでございます。
私ははっきりとそれを認めてこれからはエロ絵を描いて参ります。

このような有様でしたのでこのブログも覗かずにしておりました。
「もう閲覧数も0になっているだろう」と、
本日久しぶりに開いてみましたら以前と変わらずの閲覧数で感謝の至りでございます。
おまけに何やら広告まで(笑)。
そろそろ復活してきた感じがしてきましたので一筆失礼いたしました。


一寸先は闇。
願わくば、
「あまりのいやらしさに目を背けたくなるような」、
そんなエロ絵が描けるよう、
守護神、歓喜天王に願い奉る。


2013-05-01(Wed)

日記~【博物館にて】

先日、とある博物館で民族美術を観て参りました。
私はアフリカの美術は大好きでございます。
あの心の底の方の琴線に触れるようなプリミティブなデザイン表現は、
ピカソはじめ多くの芸術家を魅了しております。
今回、私が観て参りましたのは南米の民族美術でございました。
私はヨーロッパやアメリカ系の民族美術はあまり好きではありません。
アフリカなどに比べると線が細いと言いましょうか、
あまり心惹かれるものがないのでございます。
不思議でございます、
アートの世界ではギリシャ、ローマ、ヨーロッパ、アメリカが世界を牽引してきたのに、
古代民族美術レベルではそんなに魅力が無いように感じるのでございます。
さて、その南米の古代芸術の展示を見ながら私はふとエロを表現した作品が無いことに不満を感じました。
もちろんそういった造形物はたくさんあるに違いありませんが、
展示ではエロ作品はいっさい除外されているのでございます。
私は「エロスを表現した作品が見たい」と、こういった美術展ではじめて強く思いました。
アフリカのペニスを強調した彫刻、日本の道祖神、インドの交合像…
エロ的表現の作品というものには何に遠慮することもない「自由」を感じるのでございます。
性というものには個人的にも社会的にもタブーの足枷があります。
エロを表現して作品とし世間に発表するということは、
まず自分にはめられている足枷を取っ払ったということで、
そこに大きな自由感を感じるのでございます。
何と言いましょうか、嘘が無い表現とでも言いましょうか。

―私自身、これからも自由自在にエロを表現していきたい。

内容には不満でございましたがエロ的創作物の自由さを再認識できたことは収穫だった美術展でございました。


2013-03-12(Tue)

日記~【快楽―この人間的なもの】③

我々にとって「快楽」は「本能」ではございません。
セックスはもう子孫を残すためだけの本能的行為ではなくなりました。
あえて表現するなら「快楽」は「文化」であります。
動物だった我々にとって獲物を得る死活問題な行為だったハンティングがそうではなくなったように、
殺しあう決闘がレスリングやボクシングになったように、
我々は交尾から「快楽」という文化を生み出したのでございます。
動物には欲情や快感はあるかもしれません、しかし「快楽」は人間だけのものでございます。
命や生存に関わる「本能」的なものに近いほど「動物」的と言えましょう。
エロな絵や文章を視たり読んだりして興奮を覚える―こんな「快楽」的なことは人間にしか出来ません。
何という事でしょう、我々は素晴らしく高度で文化的なことをやっているのでございます。
正直に言いまして私は今までずっと、
「これは腹の足しにもならない愚にもつかない下卑た本能に振り回されているだけの軽蔑されるべき下らない行為ではないか」
とどこかで罪悪感を感じながら春画を描いて参りました。
そんなことはなかったのでございます。
人間、そして自分というものをもっと真剣に深く洞察していれば辿りつけたのでございました。
これを読んでくださっている皆様、私の絵を愛でてくださる皆様。
これからも誇りと自信を持ってエロを愛そうではありませんか!


2013-03-10(Sun)

日記~【快楽―この人間的なもの】②

我々は大脳が発達して知能が高くなり衣食住に困らなくなってきて段々と「人間」になって参ります。
それはつまり生活、人生に余裕が出来て―寿命も延びて―「時間」を得ることでもあります。
そう、我々は「人間」になって本能だけに生きなくても良くなったのでございます。
外敵から身を守る家の中で食の心配もせず充分な時間の中でリラックスして行う交尾―。
これはもう交尾ではなくセックスではないでしょうか。
知能が高まり時間が出来た我々「人間」は本能以外の能力を伸ばさざるを得なかったのです、「暇つぶし」のために。
これは知能が高まった動物、人間の必然だったのでしょう。
私は男ですのでオスの観点でお話しておりますが「動物」だった我々にも、
メスに否応なく引きつけられ交尾するからにはメスに対する「欲情」と射精に伴う「快感」は間違いなくあったはずでございます。
これは食における空腹感と満腹感、便における便意と排便にあたる本能的な感覚でしょう。
我々は交尾から「欲情」と「快感」を抽出して培養し、本能から独立した「快楽」を手に入れたのでございます。
2013-03-08(Fri)

日記~【快楽―この人間的なもの】①

人間の性はもはや本能ではないとよく耳にしておりましたが、
ようやく私にもその意味が理解できて参りました。
**********
原始時代に戻ってみましょう。
我々がまだ「動物」だった頃でございます。
暑さ寒さに耐えながら獲物を一日中追い回していたことでございましょう。
いや恐らく毎日食べ物を口には出来ずにいつも空腹だったに違いありません。
動物だった我々はその一生を“生きるためだけ”に費やしていたのです。
そんな我々のセックス、いえ、交尾はどのようなものだったでしょうか。
発情期があり純粋に子孫を残すだけが目的の交尾。
他の猛獣たちから襲われないように注意を払いながらの交尾。
そこには「人間」である我々が感じている「快楽」などは存在しなかったのではないでしょうか。
とてもそんなものに耽る余裕など無かったのではないか、
そんなことは“本能的に”許されなかったのではないか―そう思うのでございます。
2013-02-15(Fri)

日記~【妄想現代エロ画展】

昨日はずいぶん暖かかったのですが本日は一転、
とても寒うございますね。
皆様に於かれましては風邪など引かれませぬよう。
あと少しで春でございます。
さて、先日の日記のせいで「現代エロ画展」の妄想が膨らんでしまいました。
今夜はその私の夢を。

**********

その美術展では上等の美酒と料理も味わうことが出来ます。
いえ、客達はテーブルに着いて料理と酒を味わい、
感想や批評をしながら絵を観るのです。
何という至福でしょう。

「君、あのA氏の作品を見給え。あそこに描かれた熟女のヒップが僕は大好きなんだ。
あのライン、あのボリューム、あの質感。中国の壺に勝るとも劣らない美しさだ」
「まったく熟女の尻にかけてはA氏の右に出るものはいませんからね。
ところで私はB氏の柔肌の表現が最近気になっています。
何だか光り輝いているようで、レンピッカや藤田嗣治を超えていると思いませんか?」
「オレは断然C君の抽象表現が気に入ってるんだ。
カンディンスキーは音楽を抽象絵画で表現しようとしたが、
今まで抽象的に表現されて尚且つ最高にエロいなんて絵画があったかい?」

どうでしょう、こんな素晴らしい展覧会に参加してみたいとは思いませぬか。
しかしエロがエロである限り、まず実現は無理なように思います。
エロは深層心理に触れるもの、そのために社会からタブー視されていると私は考えております。
エロは日陰の存在。
いやしかし…ならば日陰でなら実現できるのでは?
いえ、もうすでに実現されているかもしれません。
参加者はハイソな人物ばかりに違いない。
そしてあの大物も…
いやいやこれ以上の妄想はもう止めておきましょう(笑)

************

こんな話を書いておりましたらふとこの言葉を思い出しました。
「うつし世は夢。夜の夢こそまこと」―江戸川乱歩


2013-02-11(Mon)

日記~【わくわくドキドキ、そしてエロ】②

ただのもろ出しのそのまんまなエロではなく、
その人がどのようにエロを表現しているのか、どんな表現をされたエロがそこにあるのか―。
そこに興味があるようなのでございます。
そしてそのように表現されたエロ、人によって捉えなおされたエロ、
それこそが「エロス」なのではないか、そう思ったのでございます。
ですからそこに表現されたものがどんなに下劣なエロであっても人によって表現された創作物ならすべからく、
それはエロスであると言っていいのかもしれません。
美術館で例えば「現代風景画展」といったものがあっても私は、
「いったい“風景”が作家たちにどのように表現されているのだろう」などという興味は微塵も持ちませんが、
「現代エロ画展」があれば飛んで参ります。
そこにはきっと様々な作家たちによる「エロスの饗宴」があることでしょう。
風景画展ならたぶん、観賞者の興味は風景ではなく作家の方にあるのではないでしょうか。
客達は描かれた「風景」を見たいのではなく「作家の作風」を見たいのです。
エロ画展なら、もちろん作家たちにも興味はありますがそれとは別に「エロス」に興味があると思われませぬか。
様々な作家たちにエロがどう表現されて「エロス」と変貌しているか。
考えただけでわくわくドキドキするのでございます。

現在、一枚の絵を描いておりますが、
「スタイルを変えるのではなく、追求する」と悟ったので時間を掛けてじっくり描いております。
我ながら今までとは違う出来になっていると思います。
今までは少しでも早くアップするために突っ込んで描き込んでなかったと気付きました。
早描きは早描きの良さもありますが。
今しばらくお待ちください。
皆様にこの作品がわくわくドキドキしながら待って頂けたなら望外の幸せでございます。


2013-02-09(Sat)

日記~【わくわくドキドキ、そしてエロ】①

めっきり、わくわくドキドキすることがなくなりました。
子供の頃はおもちゃの箱を開けるとき、いつもわくわくしたものでございます。
テレビでお気に入りのアニメを観る時は番組開始のカウントダウンをしておりました。
思春期になって小説を読むようになれば、
大好きな作家の新しい本を開くとき「ここには何が書かれているのだろう」と凄い期待感に包まれたものです。
そんな活き活きとしたわくわくドキドキ感が私の場合、エロに関してはまだ残っております。
それは現実の女性との関係にではなく、エロに関する創作物に対してなのでございます。
例えばAVのパッケージを開ける時、また、エロ雑誌のページを開く時。
そしてエロ画を視る時。
エロ創作物に対するこれら好奇心は他のものとは少し違う、
心の本性から来る野性的なと言っていい好奇心のようにも思えるのでございます。
それはただの助平心でもありませぬ。
興奮はそのあとに来るものでございまして(AVの場合ならそれを観ている最中)、
わくわくドキドキはその前、それを知る前の心の状態であります。
なぜ自分がエロ創作物に特別なわくわく感を持つのだろうかと考えました。
そしてそれは「この作品(作者)はエロスをどんな風に表現しているのだろう」という興味だと気付いたのでございます。
2013-02-01(Fri)

日記~【自分の絵のスタイルを変える必要はない、と教えてくれたピカソ】②

だからピカソはモチーフやテーマに束縛されず自由にスタイルを変えれたのではないか。
いや、変えることが必然だったのだ、「絵」のために絵を描いているのだから。
そう考えたとき目の前が開けたような気がいたしました。
私はピカソと違って「エロ」が描きたい。
私は自分のエロスを表現するために絵を描いているのだ。
そのエロスを最高の形で表すのが私の絵なのだ。
だからスタイルなどもともと簡単に変えられるわけがなかったのだ、
自分のエロスを表現するために常に全力を尽くしているのだから―。

そのとき私は、自分の絵のスタイルを無理やり変える必要などない、ということに気付いたのでございます。
おそらく私は自分の絵のマンネリズムから逃げていたのでしょう。
絵のスタイルを変えればそれが解決できると浅はかにも考えていたのでございます。
マンネリを打破するためには逃げていたのでは何も変わらない。
元に戻ってただ無自覚に描くのではなく、自分の絵のスタイルを「追求」しよう、と思いました。
するとまるで、それまで自分の絵に背を向けて逃げていた自分が、
くるりと絵に向かって突き進んでいくかのように感じられたのでございます。
ピカソについて私が考えたことは全然見当違いの的外れかもしれません。
しかしそれでも構わないのです、現に私はそのお陰で進むべき方向を見出したのですから。

澁澤龍彦『快楽主義の哲学』にアンドレ・ジイドからの
「幸福になる必要なんかありはしないと、自分を説き伏せることに成功したあの日から、幸福が僕の中に棲みはじめた」
という引用文がございます。
自分の絵のスタイルから逃げずに追求していったなら、
「絵のスタイルを変える必要なんかありはしないと気付いた日から、僕の絵が変わり始めた」
となる可能性もなくはない、と思うのでございます。


2013-02-01(Fri)

日記~【自分の絵のスタイルを変える必要はない、と教えてくれたピカソ①】

数ヶ月前から自分の絵にマンネリを感じてそこから脱却したいと悩んでおりました。
この、マンネリに対する嫌悪感は私の絵を視ていただく方々に対する気遣いなどではなく、
私自身がただただ自分の絵に絶望に近いものを感じていたのでございます。
最近も何枚か絵を描きましたが、「また同じだ」という思いから下描きの段階でペンが止まってしまいました。

昨夜のことでございます。
深夜に目が覚めてまた悶々と絵のことを考えておりました。
なぜ自分の絵のスタイルが変えられないのか―。
ふと何となく、めまぐるしい程に絵のスタイルを変えたピカソのことを思い出しました。
ピカソはなぜあれほどに絵のスタイルを変えたのか、変えることが出来たのか―。
そして思ったのでございます、ピカソは絵のための絵を描いていたのではないだろうか、と。
ピカソの絵を観ていると、
造形的な革命や実験的な描き方をしているとは思いますが描いているモノは、
人物画、静物画、闘牛、空想画などなど雑多で、
「これが描きたい」というものが無いように感じられるのでございます。
女やバイオリンなどの対象(モチーフ)はただピカソの絵の実験のための生贄であって、
ピカソにとって大事なのは「絵」そのものだったのではないでしょうか。
2013-01-22(Tue)

日記~【エロと美と生と死と】③

他の分野のアート作品は埒外にして春画に限って申しますと、
一級の春画は大抵とても美しいものでございます。
逆に美しくない春画は不思議といやらしさを感じないものでございます。
自分の事で恐縮ですが私は春画を描いているとき、
作品の中に美を追求してはいるのですが同時に、
死の恐怖から逃れてそこに「極楽」を求めているような気もするのでございます。
つまり春画には美とそして、
生と死を感じさせる宗教的なものを表現する要素が強いのではないか―。
そこを見失わないようしっかりと見つめながら描いていきたい。
そしてそこまでの作品を必ず描いてみせる―。
と密かに野望を抱いている歓喜天翁でございます。


2013-01-20(Sun)

日記~【エロと美と生と死と】②

夜の空に輝く星を見て美しいと思う。
とても夜空の星が「いやらしい」とは思えませぬが、
「美しい」と感じているその気持は何やらエロティックな欲動に通じるものがありはしないか。
ギリシア神話のアフロディーテが美と性愛の神であるところをみても、
この二つは非常に近似な存在であると人々は直感してきたのではないでしょうか。
女性のいやらしさ(性愛)は命を生み出す。
命あるところには死が存在する。
女性のいやらしさ、
つまりエロスには「美」と「生」と「死」が内包されているのではないでしょうか。
2013-01-19(Sat)

日記~【エロと美と生と死と】①

たまに、それこそ何年かに一度ぐらいでございますが、
体のラインがとてもエロティックな女性を見かけることがございます。
全体のボリュームとか比率とかあるいは動きとか、
総合的なものの結果そう見えるのかも知れませぬが、
印象としましては体の線そのものがエロさを発散しているように感じるのでございます。
そしてまた、エロいはずなのにただただ美しさを感じる瞬間もあるわけでございます。
50年ほど前、かのマリリン・モンローの体のラインを写した雲型定規が作られ、
そのラインをモンロー曲線と言って建築設計を中心によく使われたそうでございます。
男を欲情させ発情させ助平な気持ちにさせ狂わせる、
卑猥で猥褻で淫猥でいやらしい女性の体は同時に美の塊でもあるのでございます。
別の何かではなく女性の体のいやらしさそれ自体が同時に美なのでございます。
それならばこうとも言えるのではないでしょうか、
― 美の本質はいやらしさである、と。
2012-11-19(Mon)

【T君の予言】

小学生の頃、近所に友だちのT君の家がありました。
毎日のようにT君のお宅にお邪魔して彼の部屋で遊んだものでございます。
六年生の時でございます、何をしていたのかはすっかり忘れてしまいましたが、
おもむろにT君が「歓喜君は女の裸を描け!Hな絵を描け!」と、
何かに取り憑かれたかのように私に激しく言い募ったのでございます。
もちろん、私が絵を描くのが好きなのは知った上でのことでした。
私はまだ性に目覚める前でございましたし、
極端に性的なものには罪悪と羞恥を感じておりましたのでビックリしてしまい、
迫ってくるT君から逃げ惑うばかりでございました。
騒ぎを聞きつけたT君のお母さんが「なに言ってるの!」とT君を叱りに来て一件落着したのでございます。
それから数年していみじくも、人目に付かぬようにして私はエロ画を描き始めましたが、
T君の言った意味は「エッチな絵を描いて発表しろ」という意味でしたので、
T君の言葉を思い出しながらも「そんなことになってたまるか」と思い続けておりました。
ところがとうとう今年の2月にネットでエロ画を開陳してしまいました。
はたしてT君は予知的な能力があったのでしょうか、
それともただの思春期の男の子の発言だったのでしょうか。
なぜ急に何の根拠もなくあんなことを私に言ったのでしょうか。
エロ画を描くたびにT君の言葉を思い出していた私には何だか不思議な運命的なものさえ感じるのでございます。
最近また彼のことを思い出し「君の言う通りになったな」と苦笑いいたしました。
その時ふと感じたのでございます、
もしかしたらもうこの呪縛から解き放たれてあの言葉を忘れてしまうかもしれない、と。
2012-11-16(Fri)

【幼児期の性的記憶】

恐らく4才の時のことだと思います。
当時両親と三人、六畳一間の木造アパートに住んでおりました。
両親が不在の時、といっても母親はちょっと外に出ていただけだと思いますが、
4才の私は同じアパートに住む同い年の隣のNちゃん♀を自分の家?に誘って遊びました。
その遊びというのは、
お互い下半身裸になって四つん這いになりお尻の匂いを嗅ぎ合う、
というものでございました。
私自身がこの遊びをしたくてNちゃんを誘い遊び方をレクチャーしたと記憶しております。
ちょうど犬のようにお互いのお尻の匂いを嗅いでは「臭ーい」と言うのです。
それは匂いだあと必ず言わなければならない決まり文句でございまして、
それを言ってゲラゲラ笑うための匂い嗅ぎでございました。
ですのでいやらしい気持ちでというより面白い遊びのつもりだったと思うのですが、
ハッキリそうと断言する自信はございません。
何故なら未だに4才のNちゃんのお尻のアップを強烈に記憶しているからでございます。
ところがその様子を外の渡り廊下に居た母親が窓から見ておりまして、
Nちゃんを帰したあと強烈な折檻を受けました。
その時の折檻はおそらく一生忘れることはないでございましょう。
未だに毎日のように思い出すのでございます。
昔は、この遊びに対してただ折檻を受けたと単純に考えておりましたが、
母があんなに激しく私を折檻したのはもしかしたら両親のSEXを私が見て、
それを真似てあんな遊びをしたからかもしれない、
母にはそれが分かり、
Nちゃんの親にそれが知れる恥ずかしさや変態的な行為が私に伝染するのを恐れたためかもしれない、
と最近思うようになったのでございます。
しかし今となっては全ては闇の中でございます。
私に残されたのはNちゃんの可愛い丸いお尻と、
泣きわめく幼い私を大声で叱責しながら折檻する鬼のような形相の母の姿でございます。
2012-11-01(Thu)

【エロと創作欲】

【エロと創作欲】
この作品は以前描きかけた写実でございます。
これはまだ未完成作でございますが、しかし恐らくこれ以上手を入れることはないでしょう。
元画像はネットで拾った結婚式場の写真です。
いまの私が写真等を忠実に模写することは滅多にありませんが、
この釈由美子似のモデルさんのウエディング姿にエロを感じて描かずにいられなかったのでございます。
ウエディング関係会社の販宣写真でして、
微塵もエロを目的に撮られた写真ではないにもにも関わらず妙なエロさを感じたのです。
自分ではエロ画のつもりで描いていたのですがいま考えると、
実はそうではなかったのではないかと思えるのでございます。

私に春画を描かせるエネルギーはエロの情動でございます。
しかしそれはただのエロに対する欲求だけではないはずで、
もしそうなら何も膨大な時間と労力を掛けて絵を描かずとも、
パートナーを相手にするなりAVで抜くなりすればいいのでございます。
エロスを感じたら何故それを絵にしたくなるのか私には分かりません。
そのあたりのエロと創作欲との関係をこの作品がチラと見せてくれているように思えます。

エロと創作の関係。
それを知ることは自分自身を知ることでもあるような気がするのでございます。
2012-10-30(Tue)

【日陰の花】

なぜエロは恥ずかしく隠されるものなのか。
卑猥、猥雑と言われなぜ公衆の目から隔離されるのか。
私自身、性に目覚めた子供の頃からエロ画を描き始めましたが、
今に至るまで他人から隠し続けて参りましたし、こうやってネットで発表するまでは、
エロ画を描くことは変態的で恥ずかしく忌まわしい悪癖だと感じておりました。
何十年も描いて参りましたが、そのほとんどを描いてはすぐ捨てて参りました。
何度も描くのを止めようとしましたが駄目でございました。
私はエロ画に対して強烈な恥ずかしさと罪悪感を持ちながら、
どうしても描くことを止められなかったのでございます。
自分のエロ画が家族や知人に見つかるという悪夢にも苦しめられました。
なぜエロは恥ずかしく隠されるものなのか。
エロが何の抵抗もなく受け入れられ、いやそれどころか賞賛されるものだったなら…
大手を振ってエロ画を描いて積極的に発表できるのに…
と、思って参りました。
しかし最近、ずっと繰り返ししてきたその空想-何の抵抗もなくエロ画を描いている自分-をしていて、
何か違和感を感じたのでございます。
すべてが受け入れられてエロ画を描いている自分がなんだか平べったく思えたのでございます。

エロは後ろめたいもの、糾弾されるもの、他人から隠れてこっそり覗くもの-それでいいのではないか。
明るい部分と暗い部分があるから深みが出るのではないか。
そんな世界にあえて踏み込んで創作するエロ画は一級の芸術作品ではないだろうか。
春画は大手を振って表に出せない「後ろめたいアート」なのではないか。
それは「暗がりでこそ輝くアート」なのではないだろうか…

そう思い至ったとき私の脳裏に、
時間を掛けて手の込んだ仕上がりの、恐ろしく卑猥で美しい平成の春画が浮かびました。
それはただのイメージなので具体的な形を持ちませんが、
いつの日かそんな作品をものにしたい、と思ったのでございます。

どうやらどんどん道は険しくなるようでございます(笑)。
2012-10-27(Sat)

【エロティシズムの秘密】

ごく平凡で正常な我々は女性の身体のパーツにエロさを感じます。
しかしご存知のように人間にはフェチズムがございます。
ストッキングやハイヒール、この辺りはよく理解できます。
中にはとんでもないフェチをお持ちの方も居るのではないでしょうか。
たとえば、鉛筆に強烈なエロを感じるとか。
私の場合、フェチとは違うのですが直球ではない変化球的なエロを感じるものがございます。
それは、草むらや林の中に捨てられてヨレヨレになっているエロ雑誌、でございます。
性に目覚めた頃、エロ本を気軽に買うお金も度胸もなく羨望と妄想で頭がいっぱいだった頃、
誰も居ない雑木林のような所に入っていき、そこに捨てられているエロ雑誌を探したことがございます。
それを見つけた時の興奮は今でも生々しく思い出します。
購入したエロ本を自分の部屋で落ち着いて見るのとは全く違う興奮がそこにはございます。
枯葉や雑草が散らばる上に野ざらしになってガビガビになったエロ本の、
偶然開いているページから覗くヌードや扇情的な女性の姿態。
私はそこにこの世のものとは思えないほどの強烈なエロティシズムを感じるのでございます。
ところがそれを自分の部屋で落ち着いて開いて見るとその興奮はそこにはないのです。
この違いは何なのでしょう。
私を興奮させる「野ざらしのエロ本」の秘密。
これはあるいはエロティシズムの秘密に通じるものなのかも知れませぬ。
プロフィール

歓喜天翁

Author:歓喜天翁
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自作のエロ画春画を中心に、その他エロに関わることを載せていく所存でございます。
貴方様の心の憩いの場になりましたら嬉しゅうございます。
Email address:kanki330-tennou@yahoo.co.jp

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歓喜天翁平成春画帳
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