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2013-09-11(Wed)

【歓喜天翁の獰猛な勃起を目にして一瞬たじろぐ出会い系熟女人妻(42才)】

【歓喜天翁の獰猛な勃起を目にして一瞬たじろぐ出会い系熟女人妻(42才)】
出会い系で知り合った人妻は上玉だった。
しばらく元気がなかった歓喜天翁の性欲も復活し、
その人妻に会った途端、彼のペニスはズボンの中で痛いほど勃起した。
二人っきりになると歓喜は我慢できず激しく彼女の口を貪った。
彼女も欲しかったと見えて切なく喘ぎながらも歓喜に応える。
首筋を吸い荒々しく服を脱がせる。
タイトスカートを脱いだ彼女の丸く大きな尻の紫のTバックを見たとき歓喜の勃起は最高潮に達した。
天井を突くその獰猛な勃起を見て、SEXに慣れた42才の人妻も一瞬たじろぐ。

「いやだわ、すごい…」

亭主のより遥かに逞しいその先太い歓喜のペニスをしかし彼女はすぐに好奇の目で見つめ始めた。
ああ、早く入れてほしい、このすごいのを…
ぼうっとした顔で自分の魔羅を見つめ続ける人妻を見て、
歓喜のペニスはさらに凶暴に勃起を続ける。
ビクンビクン、と大きく鎌首を振るペニスの根本を握って歓喜は人妻に近づく。

「そうだ、我慢しなくていい。この先太りの俺のペニスが欲しいんだろ?
さあ、その細い指で触って、握って、しごいてくれ。ほら、貴女が欲しくてもうこんなに怒張してるんだ。
ああ、そう、我慢汁ごと咥えて。もっと吸って。その小さな口では半分も無理だね。
でもその舌使い、なんていやらしいんだ。
ああ、今度は俺にその乳首を乳輪ごと吸わせてくれ。
なんて色っぽい声を出すんだ。ダンナにもそうやってサービスするんだな。
さあほら、股を開いてお前のいやらしいおまんこを見せろ。
ああああ、なんていやらしいんだ紫のTバックなんか穿いて。
それにもう愛液でヌルヌルじゃないか。
なんだどうした、そんなに感じるのかおまんこを舐められて。
数え切れないほど魔羅を咥えてきたはしたなくて臭いおまんこだ。
さあ後ろを向け、犬のように犯してやる。
なんだ自分から尻を振っておねだりか。
大きなケツを突き出して、肛門まで丸見えだぞ。
ああわかったわかった、これが欲しいんだろう?俺のコレが欲しいんだろう?
ほら入れてやる、どうだ。
ああ、すごいな、なんてケツだ、さすが百戦錬磨の人妻だ。
おおおおおおおおおすごい、夢中でケツを振ってくる。
嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼、なんて気持ちのいいまんこなんだ!
だめだ我慢できない、中に出してしまうぞ。
駄目だ駄目だ駄目だ出る出る出る。
うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


幸福なる歓喜天翁、完敗の巻でございます(笑)
2013-09-10(Tue)

【淫乱妻の肖像】

【淫乱妻の肖像】
この絵は一年ほど前に描かせて頂いた作品で、
昨日の記事にて触れました「淫乱妻のえっちな生活」のブログ主ゆう様の奥様、
あい様の肖像画でございます。
つまりブログタイトルの「淫乱妻」様でございます。
私は御依頼を受けて絵を描くことが苦手ですので、
申し訳ないのですが現在のところ全てお断りしております。
が、この作品は私がゆう様にお願いして描かせて頂いたものでございます。
出し抜けに「淫乱妻」とは失礼なのですがこれはあくまでも作品のタイトル、
あい様を離れて独立した一個の作品とご理解くださいませ。
2013-09-09(Mon)

リンクを貼りました

ネットでの以前からのお知り合いで、
いつも応援して頂き大変お世話になっているU様のブログのサムネイルリンクを貼らせて頂きました。
U様のブログ「淫乱妻のえっちな生活」でございます。
まったくの鈍で相互リンクやブロともの何たるかも分からずでしたが、
これからはリンクもしていきたいと考えておりますのでよろしくお願い致します。
2013-09-08(Sun)

【歓喜天翁の獰猛(どうもう)な勃起を目にして一瞬たじろぐ出会い系熟女人妻(42才)】

【歓喜天翁の獰猛(どうもう)な勃起を目にして一瞬たじろぐ出会い系熟女人妻(42才)】
また少し更新から遠ざかっておりました。
どうも遅筆なものですから、
一枚鉛筆で描いては次はまた新しい作品を描きたくなってしまい、
そうこうしているうちに現在6枚ほどになってしまいました。
完成を待っているといつ発表できるかわかりませんので下描き状態ですがアップさせて頂きます。

私は今までいわゆる「熟女」というものは苦手でございました。
いや、この「熟女」の年齢がどこからどこまでを指すのか分かってないのですが、
私の好みは三十代前半辺りまででございました。
今までの作品から察して頂けるかと思います。
ところがこのスランプの期間、内面に変化があったのか、
もう少し上の年齢まで魅力を感じるようになったのでございます。
それで私と熟女(四十路)の絡んだ作品を三枚描きました。
自分で「熟女三部作」と呼んでおります(笑)。
これらの作品には自分の復活の意味も込めております。
まずはその象徴として猛り狂ったペニスを前面にした作品。
性欲こそ我が生命、でございます。
2013-08-18(Sun)

テンプレートを変えてみました

テンプレートのベースを変えてみました。
あと、各作品をサムネイルサイズかタイトル表記にして全体的に閲覧、
クリックすればそれぞれ原サイズで視れるようにしたいと思っているのでございますが。
作業中で表記が変になる場合があるやもしれませぬが御容赦くださりませ。
2013-08-08(Thu)

【無題130808】

【無題130808】
この不調だった三ヶ月の間に描いたこれが最後の作品で、
カエル男に犯される人妻の図、でございます。
つい最近のもので、このまま仕上げてもおかしくないぐらい良い内容だと思うのですが、
私の中で「これではない」という気持ちがしてこれ以上描き進めなかった作品でございます。

最近、ようやく壁を乗り越えられた実感が持てて参りました。
一時は絶望して生まれて初めてエロ絵を描くのを止めようかとまで思いましたが、
なんとか持ちこたえたようでございます。
エロの魂百まで、でございますね(笑)
2013-08-02(Fri)

【無題130802】

【無題130802】
少し写実から離れて描いてみた作品でございます。
浮世絵をイメージしておりますが御覧のようにマンガチックなタッチになりました。
何だこれはと思われた方も居らっしゃるでございましょうが、
私は割りと気に入っております。
ただ、まだ無理があったようで思うように描き進められませんでした。
いま改めて視ておりますと、一つ目の怪物は間違いなく私自身の姿です。
これは屈折した私の欲望の戯画でございます。
2013-07-29(Mon)

【無題13729】

【無題13729】
SMに興味を持って描いてみた作品でございます。
秘密クラブで人妻を晒し撮影会をしている様子ですが、
当の人妻も満更ではない様子。
後手に縛られたその手でペニスを弄んでいるのがその証拠でございます。
2013-07-25(Thu)

【無題13725】

【無題13725】
ファーストフードの店員さんシチュです。
絵のノリはいいのですが構図がマンネリで萎えた作品でございます。
2013-07-22(Mon)

【無題13722】

【無題13722】
デパートのウグイス嬢が上司に犯されている図でございます。
このデパートのウグイス嬢というテーマは何度も描いているテーマでございまして、
エレベーターガールに似たエロスを感じているようでございます。
おまんこの表現は少し浮世絵を意識いたしました。
しかしこれもまた途中で萎えてしまった作品でございます。
2013-07-21(Sun)

【無題13721】

【無題13721】
これから数作品、この絶不調の期間に描きました作品をアップさせて頂きます。

これはピーピングスペルマのシリーズとして描いた作品でございます。
教師とJKという設定で、Pスペルマには教師二人が悪魔に見えるというもの。
毛色の変わったものをという邪念があったせいでしょう、
エロさに深みが無いように思えて萎えてしまいました。
ちなみにこの作品は模造紙という比較的薄い紙に描いております。
裏に描かれたヌードがうっすらと映っておりますね。
2013-07-19(Fri)

日記~【暑中お見舞い申し上げます】

暑い日が続きますが皆様いかがお過ごしでしょうか。
私はまだ調子が戻って来ていませんが毎日エロ絵のことを考えております。
この三ヶ月ほど大きな壁にぶち当たっているわけでございますが、
性欲というより生命力そのものの低下を感じております。
その作風に関係なく多くの芸術家たちが性欲減退やインポテンツを恐れた理由を体感した気がいたします。
性欲が減退するということはあらゆる創作力が低下するということを思い知りました。
また、女性に欲情すること、その感覚、そしてペニスの勃起は男にとって生きていることの証であることも実感いたしました。
この感慨は放っておいても毎日勃起している若い方には解りますまい。
いま私は「性欲こそが生命力」とさえ考えております。
生命を讃え命を謳歌するためにもよりいやらしいエロ絵を描かねばなりますまい。

現在も以前のように閲覧数があり、御礼申し上げます。
ずっと何も発表しないのはあまりに申し訳なく思いますので、
挫折した鉛筆画ではございますが2,3アップさせて頂こうと思っております。
いずれもこの期間に描いたものですが御笑覧下さい。
また、いずれは全ての作品をサムネイルサイズで一覧できるような様式の
ブログかホームページに作り変えたいとも夢想し始めました。
できるかどうか全くの未定でございますが。


2013-06-03(Mon)

tubuyaki13.06.03.

描くこと。それ自体が性の謳歌である。
2013-06-02(Sun)

日記~【ありのままのエロ心で】

一ヶ月前のゴールデンウィークに偶然、一枚の藤田嗣治の素描を観ました。
その時大きな感動を受けたわけではなかったのでございますが、
あとからじわじわと「いい絵だったなあ」と感じ入りました。
それから絵が描けなくなったのでございます。
どころかエロ絵にまったく意義が見い出せなくなったのでございます。

この大きなスランプは私に「エロ心はエロ心のままに」と気付かせてくれました。
今まで結局のところ私は「エロ」というものをどこかで高尚なものに近づけよう、
そして自分のエロ絵に言い訳しようとしていたのでございます。
女性をいやらしく感じること。
女性を切ないほど助平な気持ちで感じること。
このエロな気持ちそれ自体が何よりも素晴らしいことだと気付いたのでございます。
なぜエロ絵を描くのか―それは助平心がそうさせるから。
逃げも隠れもいたしません、私はただただ助平ないやらしい気持ちでエロ絵を描くのでございます。
そしてそれは最高に至福なことなのでございます。
私ははっきりとそれを認めてこれからはエロ絵を描いて参ります。

このような有様でしたのでこのブログも覗かずにしておりました。
「もう閲覧数も0になっているだろう」と、
本日久しぶりに開いてみましたら以前と変わらずの閲覧数で感謝の至りでございます。
おまけに何やら広告まで(笑)。
そろそろ復活してきた感じがしてきましたので一筆失礼いたしました。


一寸先は闇。
願わくば、
「あまりのいやらしさに目を背けたくなるような」、
そんなエロ絵が描けるよう、
守護神、歓喜天王に願い奉る。


2013-05-01(Wed)

日記~【博物館にて】

先日、とある博物館で民族美術を観て参りました。
私はアフリカの美術は大好きでございます。
あの心の底の方の琴線に触れるようなプリミティブなデザイン表現は、
ピカソはじめ多くの芸術家を魅了しております。
今回、私が観て参りましたのは南米の民族美術でございました。
私はヨーロッパやアメリカ系の民族美術はあまり好きではありません。
アフリカなどに比べると線が細いと言いましょうか、
あまり心惹かれるものがないのでございます。
不思議でございます、
アートの世界ではギリシャ、ローマ、ヨーロッパ、アメリカが世界を牽引してきたのに、
古代民族美術レベルではそんなに魅力が無いように感じるのでございます。
さて、その南米の古代芸術の展示を見ながら私はふとエロを表現した作品が無いことに不満を感じました。
もちろんそういった造形物はたくさんあるに違いありませんが、
展示ではエロ作品はいっさい除外されているのでございます。
私は「エロスを表現した作品が見たい」と、こういった美術展ではじめて強く思いました。
アフリカのペニスを強調した彫刻、日本の道祖神、インドの交合像…
エロ的表現の作品というものには何に遠慮することもない「自由」を感じるのでございます。
性というものには個人的にも社会的にもタブーの足枷があります。
エロを表現して作品とし世間に発表するということは、
まず自分にはめられている足枷を取っ払ったということで、
そこに大きな自由感を感じるのでございます。
何と言いましょうか、嘘が無い表現とでも言いましょうか。

―私自身、これからも自由自在にエロを表現していきたい。

内容には不満でございましたがエロ的創作物の自由さを再認識できたことは収穫だった美術展でございました。


2013-04-25(Thu)

【DEATH MASK 20130425】

【DEATH MASK 20130425】
いわゆる逝き顔を「DEATH MASK」と表現いたしました。
女性の「逝って」いる表情は死顔そっくりだと思うのでございます。
これはエロスと死が近似な存在である証明ではないでしょうか。
また我々は、それが「死顔」だと怖気を振るうのに、
「逝き顔」だと興奮するのは不思議でございます。
2013-04-22(Mon)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ⑨

「序文」の最後にサドがわれわれ読者に語りかけます。


「読者の皆さん、この世が始まって以来の最も淫らな物語の始まりに備えて、心と頭の整理をしておいて頂きたいのです。
このような物語は古代にも近代にも凡そ類を見ないものでしょう。」


ずいぶんな自信でございます。
しかしこれはまっとうな自己評価と言えましょう。
ただ私はよくわからなかったのでございます。
フランス革命前夜、
何年も刑務所に入れられている人間が、
誰が読むでもない出版の当てがあるでもない小説をこれほどの自信を持って、
まだ見ぬ読者に向かって語れるのか、と。
実際、12mの長さに貼り合わされた巻紙に蟻のような小さい文字で書き綴られたこの『ソドムの百二十日』が日の目を見るのは、
書かれてから100年後なのでございます。


「読者がその実体もよくご存知なしに絶えず口になさっている、
あの造化の神と呼ばれる馬鹿げた存在が私達に強く勧めている尊敬すべき美徳は、
はっきりとこの物語から締め出されているのです。」

「読者にとって何の差異もないように見える情欲でも、よく研究すれば、例え細微でも必ず差異があり、
それぞれ独特な洗練された趣きを持っているものです。」

「読者がこれからこの物語の中でご覧になる多くの逸脱行為の中にはたぶん気に入らないものもたくさんあることでしょうが、
しかし又思わず精水を洩らさずにはいられないほど興奮させる行為もたくさんあるのです。
作者はそれでなければなりません。」


どうやら彼は、まだ見ぬ読者の「精水を洩らさずにはいられないほど興奮させる」ことを使命としているようで、
「作者はそれでなければなりません」と断言するこのサドの言葉を読んで私は非常な親近感を持ったのでございます。
これは、より「抜ける」エロい春画を目指している現在の私の姿ではありませんか。
エロ絵師はそれでなければなりません。

サドの状況なども想像すると、彼がこの物語を書かずにいられなかった心理も興味深うございます。
読み進めば果してその一端でもわかるでしょうか。

いよいよ「序文」が10月31日で終り、11月1日がやってきます。
「第一部」、饗宴の始まりでございます。
2013-04-20(Sat)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ⑧

公爵の“訓示”は徹底的な女性蔑視から反抗的な無神論で締めくくられます。
科学的論理的な無神論などでは到底なく、
公爵の場合は神に対する憎悪が感じられるのでございます。
道徳的なもの、神聖なものには本能的に嫌悪感が沸くようなのです。


「前にも言った通り、宗教的な行為と思われるような行為はどんな行為でも一切禁止するぞ。
予め警告しておくが、宗教的な行為はあらゆる罪の中で最も厳しく処罰されるのだぞ。
何人かの馬鹿な女は神という恥ずべき観念を捨てる決心もつかず、
思い切って宗教を嫌う気持ちにもなれずにいるが、私はよく知っているよ。
私はきっぱりと言っておくが、そういう女は厳重に吟味するぞ。
もし運悪く現場を押さえられたら、死罪よりも恐ろしいどんなにひどい仕打ちが待っているか知れないぞ。
そうした馬鹿な女は早いところ料簡した方がよいな。
神の存在などという阿呆らしい観念にしがみついているのは、今日この世に二十ばかりの宗教に属している連中しかいないではないか。
彼らが頼りにしている宗教というものは偽善者達が発明したお伽話に過ぎないし、
我々を騙そうとしている意図があまりにも見え見えではないか。
自分でよく判断してみるとよい。
もし神が存在するとしたら、もし神が全能であるとしたら、神は、
神の栄光であり、お前達が誇りにしている美徳が犠牲に供されようとしているのを何故放置しておくのだろうか。
全能といわれる神は、俺のような一個の弱い被造者、神から見れば象の目の中にいるダニのような憐れな存在が、一日中、
神を侮辱し、挑戦し、無視し、反抗するのを黙って見ているのだろうか。
どうだ、お前達、そんなことがあるはずはないではないか。」


私はエロスをテーマにこの感想文を書いているわけでございますが、
公爵の女性蔑視や神に対する憎悪、
これらもエロスに深く根ざしていると感じるのでございます。
春画を発表し他人様に視て頂くようになってから私は真剣にエロスを考え始めました。
そうするとどうしても人間感情や心理、人間存在の本質に行き当たるのでございます。
私は現在ではエロスに、美と宗教と生と死を感じるようになっております。
この『ソドムの百二十日』は私に新しいエロスの一面を見せてくれるのではないだろうか―
この本は私にとって爆薬のような破壊力に満ちているのではないだろうか―
そんな予感がするのでございます。
2013-04-18(Thu)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ⑦

「序文」の最後は、館内の女たちに対するブランジ公爵の“訓示”で終わっております。
開口一番、

「お前達は我々の快楽を満たすために鎖で繋がれている弱い存在なのだ」

という強烈な女性蔑視の言葉が発せられます。
この訓示では女性蔑視と、徹底的な無神論が述べられております。


「女のお前たちは世の中では呆れるほど絶対的な力を与えられてきたかもしれないが、
ここでもそんなものが与えられると思ったらとんでもない間違いだから、自惚れるのはいい加減にした方がよいな。
奴隷の千倍も従順になって、ありとあらゆる恥辱を覚悟するとよいのだ」

「我々はかつて美や神聖さに対して少しばかりお追従を言ったこともあったかもしれないが、
そんなものは元々大嫌いだから幻影が官能を満足させてしまうと、
自尊心と神を恐れない道楽精神が頭をもたげてきてそんな下らないものなどぶち壊してしまうのさ。
軽蔑と憎悪が心のなかに湧いてきて、想像によって作り出された魅力など追い払ってしまうのだ」

「我々の中で一番罪の軽い人間でも、お前達にはとても数え切れないほどの破廉恥な行為に汚れているのだ。
だから、そうした人間にとって一人の女の生命ぐらい、そうだ、地球上に住むすべての女の生命だってどうでもいいのさ。
一匹の蝿を殺すのと同じくらいどうでもいいことなのだ」

「もしお前達が不行跡を働いて我々を怒らせればどんな目に遭うか、今から覚悟しておくがいい。
それに、お前達の中には我々との人間的な絆を鼻にかけて大目に見て貰えるだろうと期待している女がいるかもしれないが、
そんなことを当てにしているととんでもない過ちを犯す事になるぞ。
我々のような人間にとって人間的な絆など少しも神聖ではないのだ」

「お前達はいつも震えて、我々の意向を察し、何事にも服従し、先を見越して行動すればよいのだ」

「要するに、我々はお前達を人間として見ているのではなく、動物として見ているのだ。
望みのままに奉仕させ、反抗するときには遠慮なく一発食らわせるのが動物に対する扱い方というものさ」


現在の社会ではまともに発せられる内容の言葉ではございません。
いやおそらく当時のフランスでもそうでございましょう。
しかしながら、これほどまでに徹底的な女性蔑視の文章を読んでおりますと、
逆に嫌悪感が湧いてこないから不思議でございます。
ここまで腹をくくって言葉を発せられると、
「そうか。それはそれで君の考えと感性だからな」と思ってしまうのでございます。
フェミニズムが有効なのは相手にいくらかでも言葉が届くからで、
こんな訓示を垂れるブランジ公爵にはフェミニズムなど鼻で笑われながら踏み潰されそうでございます。
2013-04-16(Tue)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ⑥

なにやら後半は随分と学術的な目的のように聞こえますが、
要は性に関するあらゆる話を聞いて淫猥な想像力を掻き立てて、
よりいっそう興奮し、より深い快楽を味わいたいということでございましょう。
ここも私は頷けるところでございます。
AVや写真をただ見て起こる受動的な興奮より、
想像によって掻き立てられる能動的な興奮のほうが遥かに興奮度が高いものでございます。
ただ、想像力を掻き立ててエロを発生させるのはなかなか難しゅうございます。
四人の道楽者たちは、四人の語り女たちに話をさせてそれをするわけでございます。
しかし道楽者たちは本当にただただ淫猥と快楽だけが目的だったのでしょうか。
エロの中には「何か」がある、
人間にとって自分にとって重要な「何か」がある、
追求し解明しないではいられない「何か」がある―
道楽者たち、いえ、サドはそう感じて止むに止まれずこの物語を書いているような気がするのでございます。
2013-04-14(Sun)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ⑤

サドは「序文」で物語の骨格をしっかりと描いておこうとしているようです。
おおよそ登場人物の風貌は説明されております。
特に四人の権力者についてはサド自身が「四人とも男色趣味があり、男女のお尻と裏門に夢中」と説明、
付け加えますと、女の子より男の子が好きで玉門(おまんこ)はあまり好きではなく時には嫌悪感さえ催すようでございます。
そしてサド自身が好きなのでしょう、よくヒップの美しさを賛美する描写が出て参ります。
私も(女性の)ヒップが大好きですのでこのあたりはサドに肩入れできるところでございます。

さて、四人の道楽者たちによる狂宴の目的についてもサドは説明します。

「彼ら(道楽者たち)は、
想像力が燃え上れば人間の欲情は図り知れないほど変化するに違いないだろう、
人間にはそれぞれ様々な癖や趣味があり、その間に著しい相違が見られるが、
欲情ほどそうした違いが著しいものはないのではなかろうか、
この際、そうした背徳や逸脱行為の一つ一つをはっきり分離し、分類して、詳細に調べることができるならば、
風俗の研究に関する極めて優れた、おそらく最も興味のある仕事になるに違いないだろう、
そのためには、あらゆる放埒の限りを知り尽くし、しかもそれを分析し、拡大し、段階を付けて物語り、
さらにその間に面白さという味をつけることができる人物を探し出すことが必要だ、
と考えたのです。」
2013-04-11(Thu)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ④

「序文」は登場人物たちや、4ヶ月のあいだ行われる狂宴の舞台になる館などの説明に費やされています。

*宴を主催する四人の権力者*
・ブランジ公爵(50)
(物語の中心人物。精力絶倫。金と快楽のために母親、妹、三人の妻を殺害)
・司教(45)
(公爵の弟。華奢な体格。女役を好む男色家。友人が託した財産目当てにその子供たちを殺害)
・キュルヴァル法院長(60)
(過度の放蕩のために痴呆状態。不潔好み。ある生娘を犯し、その両親と共に殺害)
・徴税請負人デュルセ(53)
(公爵の親友。10cmの一物はほとんど不能。もっぱら女役。財産目当てに母、妻、姪を殺害)

その他、
・彼らの四人の娘たち
(結束を固めるためお互いの妻でもある)
・四人の語り女
(毎夜、淫猥な話を語る)
・四人の召使女
・八人の馬蔵
(登場するのはその内の四人)
・八人の娘たち
(公爵たちの相手をするため各地から集められ厳選された十代前半の少女たち)
・八人の少年たち
(同上)

以上の人物たちが11月から2月の120日間、
人里離れた山奥の、堀で囲われドアというドアを塗り固めた館の中で、
ただ四人の権力者たちの欲望と快楽の実現のために狂宴を繰り広げます。
ほんの人物紹介の「序文」でございますがもうすでに目を背けたくなるような残酷な描写もあり、
これはただの卑猥でいやらしいだけの生やさしいポルノグラフィーではないと感じられるのでございます。
エッチだとかスケベなどという表現はまるで子供のおもちゃのように踏み潰される思いがいたします。
ただならぬ雰囲気が立ち込めてまるで「さぁ、お前はこれから先を読むか、やめるか?」と迫られているようでもあります。
そして私はもちろん…禁断の扉を開ける思いで先を読み進めるのでございます。
2013-04-08(Mon)

【ナメクジ男に犯される人妻・遥(文字入りVer.)】

【ナメクジ男に犯される人妻・遥(文字入りVer.)】
すでに発表させて頂いております作品でございますが、
この文字入り版は当初のもので、しゃにむにに発表したものでございます。
ブログに載せる際に文字が幼稚で下品な感じがしまして削除しましたが、
改めて視てみますとこの遥の表情に、
こんな化け物に犯される無念さ、亭主を裏切る罪悪感、
しかしそれらを帳消しにして余りある快楽に呑み込まれて感じるエクスタシー、
そんな複雑な絶頂感がこちらの文字入りの方によく出ているようにも感じます。
動きや科白を前提に描いていたのかもしれません。
エロ絵における文字の在り方もこれからの私の課題となりそうでございます。
何にせよ恥ずかしいだの体裁だのを気にして、
本当に表現しなければならないものをないがしろにするなどあるまじきことでございます。
2013-04-04(Thu)

tubuyaki13.04.04.

要するに、私はエロスの味方である。
2013-04-02(Tue)

tubuyaki13.04.02.

エロも芸術も一流のものは自ずと反体制的な匂いをまとっている。
どちらも精神や表現の自由に関わるからだろうか。
エロと芸術は非常に近い存在のような気がしてならない。
2013-03-31(Sun)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ③

ブランジ公爵の演説はまだ続きますがこれぐらいにしておきましょう。
サドは自分の行為が犯罪であり神に罰せられるような行いであると世の中から烙印を押されたとき、
リベルタン(信仰及び宗教的戒律に従うことを拒否して自由に振舞う精神を信条とする者)になることを心に誓ったそうでございます。
このブランジ公爵の言葉は、神に唾を吐きかけるがごとくサドのリベルタン宣言のようにも聞こえるではありませんか。
これは我々日本人とは違って、キリスト教世界においては命懸けの宣言だと思うのでございます。
また、快楽のためには何物も辞さない強烈な快楽主義者の姿がここにあります。
そしてここで嘲笑され罵倒されている、「いつもふらふら」している人間とは自分の事ではないかと私は赤面する思いでございました。
リベルタンでなくても快楽主義者でなくても、私のようなごく平凡な人間でも、
このブランジ公爵のような生き方をするべきではないか、そう思うのでございます。
さて、快楽に対してこのような強靭な精神と信念を持った公爵が三人の仲間と餌食になる大勢の犠牲者とともに120日の間、
人里離れた館で恐ろしくおぞましい狂宴を繰り広げる―それがこの『ソドムの百二十日』の物語でございます。
2013-03-29(Fri)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ②

この作品は「序文」「第一部」「第二部」「第三部」「第四部」という構成になっております。
サドという人物はその名がSMのSの語源になった人物でありまして、
その猟奇的変態的行為によって、社会制度や時代もありますが一度は死刑判決を受けた程の半生を送っております。
サドは二十代の頃から逮捕されたり投獄されたりして人生の最期はシャラントン精神病院だったそうでございます。
この『ソドム』はサドが45才の頃、
当時投獄されていたバスティーユ監獄のなかで看守の目を盗みながら書かれました。

「序文」の中で非常に感銘を受けた部分がございます。
それはこの物語の中心人物、精力絶倫で極悪非道のブランジ公爵がのたまう科白でして、
おそらく著作権的には問題ないでしょう、余りに感動的なのでここにその一部を転載させていただきます。

**********************************

公爵は常々語っていました。
「人間がこの世で本当に幸福であろうとするならば、一切の悪徳に身を任せるだけではなく、自分に対してたった一つの美徳も許してはならないのだ。
常に悪事を行うように心掛けるばかりではなく、決して善を行わないということが肝腎だ。
世の中には、普段美徳を行うことを心掛けながらときたま情欲に駆られて悪の道に引きずり込まれてしまう人間がいるが、
そうした人間の魂は過ちから醒めるとたちまち平安に戻り、又無事平穏に美徳の道を歩み直してしまうのだ。
だから、彼らは善と悪との戦いから過ちへ、過ちから後悔へとさまよい歩いて、最後には、自分はこの世でどんな役割を果たして来たのかをも正確に言い切ることもなく死んでしまうのさ。
そんな人間は不幸に決まっているよ。
いつもふらふらし、いつも迷って、朝になると昨夜のことを嫌悪して一生を終わってしまうだけなのだ。
そうした連中は、例え快楽を味わっても必ず後悔するのがお定まりだから、快楽に身を任せながら絶えず震えているのさ。
ちょうど、悪事を行いながら善人になってしまい、善を行いながら悪人になってしまうようなものなのだよ。
私の性格はもっと強いから、私は決してガタつきはしないね。何を選ぶか決して迷いはしないね。
自分のすることには必ず快楽が伴うものだと確信しているから、後悔して快楽の味を薄めてしまうような馬鹿げた真似はしないよ。…(後略)」

(佐藤春夫訳『ソドムの百二十日』より)
2013-03-28(Thu)

マルキ・ド・サド『ソドムの百二十日』 ①


ソドムの百二十日ソドムの百二十日
(2002/07)
マルキドサド

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私はごくごく平凡な性癖の持ち主でありましてSMというものが全くわかりません。
それが最近、理解できないまでもSMはエロスの進化形ではないかと思ったのでございます。
動物的交尾から快楽を切り離したエロス、
それへ苦痛や被虐や羞恥を加えたSMはさらに人間的行為と言えるのではないでしょうか。
とにかく私はSMに対して急激に興味が湧き始めたのでございます。

マルキ・ド・サドの『ソドム―』(原題は『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』)は澁澤龍彦訳のものが有名ですが、
全体の約六分の一である「序文」の部分しか訳されておりません。
そこで完訳されている佐藤春夫訳『ソドム―』を購入いたしました。
が、これが大作でありまして、読むのが遅い私にはいつ読了できることやら。
また、感想文も一筋縄では行きそうもないので読み進めながら覚え書きも兼ねて感想を書いていくことにいたしました。
現在「序文」を読んでいるところでございますがSMというものは、
ただ暴力的であったり変態的であったり―ではとても収まらないもののようでございます。
そこには人間心理…というより人間存在に関わる何かがあるように感じられるのでございます。
2013-03-26(Tue)

tubuyaki13.03.26.

女性は私をニルヴァーナへ導く門である。
女性を介して私は創造し幻想し涅槃に触れるのだ。
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