2015-04-21(Tue)
映画~『エマニエル夫人』(1974)
この映画が公開され日本でも大ヒットした時、まだ私は性に目覚めたばかりの子供でしたので、
内容も知らないのに長らくこの作品に対する印象は「とてもHな映画」というものでございました。
20年ほど前でしたでしょうか、まだVHS全盛の頃にビデオで初めて鑑賞いたしましたが、
あのボクサーに後ろからされるクライマックスシーン以外ほとんど内容は忘れてしまいました。
今回ふと観てみたくなりレンタルしまして久し振りに鑑賞いたしました。
貞節な妻が夫や社交界で知り合った人物たちに導かれて性の遍歴をし、自分に目覚めていく姿を描いた作品でございます。
タイが舞台ということもあってか、フランス映画でありながらずいぶん東洋的な雰囲気が漂う内容でございまして、
それは随所で性に関する哲学的な台詞が交わされるせいでもありましょう。
20年前の私はAVを観るようにただただエロ目当てで観たのか何もわかっておりませんでした。
現在の私にはこの作品はエロスを通して何かに到達しようとするエマニエルの姿を借りたセクソロジーの映画に見えるのでございます。
エロを表現することに自分を捧げた今だからこそこの映画の内容がようやくわかるようになった気がするのでございます。
この映画の秀眉はどんどん自由になっていく彼女自身そのものでございましょう。
初めは保守的常識的で貞節な妻だった彼女が性を探求し自由になっていく姿そのものでございます。
ただいやらしいだけ、ただ助平なだけ、ただ興奮するだけ、ただエロなだけ、ただセックスするだけなら動物や虫にも備わった能力でございます。
われわれ人間はこの性の情動に、このエロスの中に人間存在の重大な何かを感じて絵にしたり映像にしたり音楽にしたりして探求するのでございます。
そしてエマニエルのように行動そのもので。
そういった内容であるからにはこの映画そのものも自ずと革命的でなくてはなりません。
私はいわゆるノーカット版で観ましたが、
たとえばこの作品が自主規制的にヘアーを隠したりセックスシーンを生半可に表現していたとしたらどうだろうと想像いたしました。
それはもうその時点で作品として失格でございます。
そんな常識に縛られた表現をしては人間性の探求を謳った内容にぜんぜん説得力が無くなるからでございます。
こういうところからも表現規制の不条理を理解できるのではないでしょうか。
エマニエル夫人、いろいろと教えられる映画でございます。